放浪息子、いつまでも。

放浪息子 15 (BEAM COMIX)

放浪息子 15 (BEAM COMIX)

ぼくたちの、きせき。

書店によってみるのはただまっすぐ帰るのが億劫だったからなだけ。毎日ほんの少しずつたまって重くなった疲れに足をひきずり、書店によってはみるけどお金がないから特に何も買わない。ここは雑誌が読めるから。そこで出会ったのが「放浪息子の連載開始」と表紙に描かれたコミックビームという聞いたことのないコミック雑誌。ためしに開くと、ああ、と読みすすめた。


「少しレトロなチェック柄が好き」、そんな感じの主人公のフレーズにそうそうそう!と思わず頷き、嬉し恥ずかしお姉ちゃんのコートを盗み着た少年に胸を高鳴らせ、「出会った」と思えた作品だった。毎月雑誌の発売日に覗きにいくのが習慣になった。ある時は立ち読み防止のためか紐で縛られ読めなくなっていた。それに不満を覚えて久しい頃にはその書店によることはなくなり、一年に一冊25日あたりを目安に単行本を買い求めるようになった現在。
この子たちの物語が高校時代を終えようというときまで私はリアルタイムにかれらの時間を追ってきた。


どうも4巻あたりまでは誰かに貸したのか見当たらなくなったのでずっと読み返せてない。当時はコミックスに透明のカバーをつけてなどいなかったので、いつか帯びつきで保存版が買えたらなと思うのだけどさてはて。


たくさんの思い入れがあるのだろうか、上手くはいえない。けれど少しのことだけ何か書けたらと思ってノートを久しぶりにこうして開く。



高槻さんが「もう男になりたいとは思ってない」と思うようになったことに、ひとは失望しただろうか。しょせんそういうものだろうと納得しただろうか。


私は前の14巻を読んだ時点で「たとえ高槻さんがそうなったとしても、今まで色々な岐路を経たこの子がたどり着く場所ならそのままを見ていたい」と思った。あの高槻さんだから、そう思う。高槻さんの進んだ道がどうであれその岐路自体に生まれる意味を見届けたい。たとえば異性になりたいと思った子が結局もともと与えられた性別に戻ったとしても、性別越境をするひと・経験にまつわるこもごもを知ること、肯定されること、実感することは大切なことであるのに違いはないのだし、と。


だけど、同時にソレは私が「男」だからで 男になりたくない性質だからで、どこか他人事に見てられるからそう思えるだけなのかもしれない。他の誰かの切実さは私の切実さでないだけ、つまりはそういうことなのかもしれないと。


そして15巻を読んだ今、なんだかやるせない気持ちで身につまされるようだ。
二鳥くんは私小説を書き出した。これまでの、これからの自分をなぞるよう、作り出すよう。
ソレはなんだか今までオブラートに包まれていた本音のみならず性的なものまでつまびらかに描かれ、二鳥くんのしてきたこれまで以上に身勝手で乱暴なものに思えた。

暴くようで。ぶつけるようで。

何を暴いたんだろうか。関係性を。何をぶつけたんだろうか。欲望を。

かれはソレをきろくと呼んだ。


今までの皆がつむいだあれこれが一体どんなところへ結ばれた糸だったのか。そこにちょっと傷ついてるのかもしれない私は。



ユキさんはかつて二鳥くんが高槻さんに告白をしたけどフラれてしまったことについて、「まだ早すぎたのねぇ」としみじみ言った。まるでふたりは結ばれるはずの関係だったのに、と言うように。


そして今度は高槻さんがふとした瞬間に自分が二鳥くんに恋をしているのだと気づいた。だけどけっきょく二鳥くんがキスを交わすのは安那ちゃんで。次にフラれるのは高槻さんの方になった。
かつて自分に恋していた人相手に失恋したのだ。ただそれだけ。

ひとりは男の子になりたかった
ひとりは女の子になりたかった
ひとりは男の子になるのをやめた
ただそれだけの話

それだけの話。

なのだろうか。高槻さんは自分が男になることをやめたことを、女装することを裏切りだと呼んだ。ふたりをつなぐ大切なものだったのに、それを自分は失ったのだと。
これじゃどうしても高槻さんが女装を選んだことと、二鳥くんとの恋愛に破れたことが因果として結ばれてるように読める。

それをあらためて否定するために、「それだけの話」だと二鳥くんのきろくには記されたのかもしれない。
だけど私はそう思い切れないでいる。「ふたりは同志だろうか」。それ自体はもともとすごく難しい問いだ。たとえば互いに性別を超えたい者同志であっても、自分がなりたい器を相手が持っているということからも、男として生まれたこと女として生まれたことの違ということからも、何かひとつの軸で誰かと同志であると言い切るにはあまりにひとは切断と接続があべこべに絡まりあってしまってる。


けれど高槻さんが男になることをやめたからって二人が同志でなくなったと私は思いたくない。たとえ結果がどうあれ今までを歩いてきたふたりだもの。結果次第で変わるものがあったとしても。そうしてみんなの縁が広がっていけたんだから。

なのに途切れた糸みたいに、かれらの間に一体どんな隔たりがあったんだろう。



運命の赤い糸なんて言葉がある。放浪息子に登場する人たちそれぞれにどんな色の糸があったのかは知らない。けど、糸は切れたんじゃなく最初から繋がってて、その糸のつむぐ色がどんなものであったかはこれまで見えてこなかっただけで高槻さんがもし男の人になりたいと今でも思える人であったなら、ふたりはあらかじめ恋の色で結ばれていたという話だったのだろうか。なんてつまらないことを考えてしまう。


だけどよく考えてみれば、この『放浪息子』という作品は放浪する揺らぎを、「人」に帰するんではなくどちらかと言えば「時」に帰するものとして描いてきたんじゃないかとも思う。高槻さんと誰かの糸も千葉さんと誰かの糸も、その人だから、じゃなく。積み上げてつむいだんじゃないかという印象は、ある。
だけど放浪息子に限らずこの作家さんは劇中劇を好んで描いており、なんだか今となってはこの物語は<舞台の配役>を主として描かれてるんじゃないか・・・。配役からなる妙によって、本来ある男/女という配置が面白くズレたり、そういった趣向をうまく描いてきたように。

こうした私の戸惑いにも今は答えはないのかもしれない。答えなんてないのかもしれない。

ふたりの話を書きたいって言ったんでしょう?
二鳥くんてずっとそうだったわ 昔から

私も千葉さんのようにそう思いたい。

さあ、二鳥くんと高槻さんがけっきょく恋人にはならなかったこと、高槻さんが男になることをやめたこと、ひとは失望しただろうか。納得しただろうか。
私はさびしい。
どんな結果であれ見届けられたら満足できると思っていた。
高槻さんが男になることをやめたことより、男になることをやめたことで二鳥くんとの関係が時とともに変わっていったのだろうことに、かなしくなった。
たとえば二鳥くんが結局女の人になることをやめたとしても、それでもよかったと私は思ったかもしれない。
ふたりの奇妙にうすく、細長い糸でつながった関係が今は恋しい。


千葉さんは自分にはないその糸がうらやましくてしょうがなかったんだろう。ただ、二鳥くんは昔夢に千葉さんが出てきたと言う。原稿用紙の束を手にして自分を呼んだ千葉さんは、そんな二人の糸を記すための舞台装置だったのかもしれない。そういえば彼女は劇中劇で一旦は主役を演じた後は裏方にまわってしまったっけ。

ああ、他の皆はどんな役を演じてきたんだろう。



私は自分を女だと思ったことはない(と思う)。
私は女になりたいと思ったことはあんまりない。
・・・実は私も自分が思うよりはこの性に自信がなくて、高槻さんとさほど距離がないような気がしている。男も女もみんな大嫌いなのにこのところ調子が狂う千葉さんのように。
二鳥くんと高槻さんは違ってしまったのだろうか。私は二鳥くんみたいには考えないし、高槻さんの「二鳥くんみたいになりたかった」という想いも最終巻になってようやく少し意味が汲み取れそうな気がしてきただけで、やっぱりどこか遠い。でも近しい気持ちで、そんなふたりをずっと見てきた。


学生だった頃に本屋さんでたまたま立ち読みをした。
自分のために用意された物語だと思い込めた。
読んでる間に私も変わったのかもしれない。
変わったとかじゃないのかもしれない。


よくわからないことがわからないまま平気でちらばる時間で、私は『放浪息子』と出会えた。
今は、それだけ。