遅ればせながら

腐ログ。&萌えプレ ボーイズラブアワード2006

私はコミック派なので、コミックについてカキカキ。

等身大の男同士の欲望というリアル。

窮鼠はチーズの夢を見る (ジュディーコミックス)

窮鼠はチーズの夢を見る (ジュディーコミックス)

ちなみに、帯は。
男とセックスするのは、恐いですか・・・?
です。


これ、でもね、レディコミなんだよねー。BLじゃなかったりする。

優柔不断な性格が災いして不倫という「過ち」を繰り返してきた恭一。ある日彼の前に妻から依頼された浮気調査員として現れたのは、卒業以来会うことのなかった大学の後輩・今ヶ瀬だった。ところが、不倫の事実を妻に伝えないことの代償として今ヶ瀬が突きつけた要求は、「貴方のカラダと引き換えに」という信じられないもので…。くるおしいほどに切ない男と男のアダルト・ラブストーリー。

あらすじ、帯の背参照。


レディコミがBL大賞ってどうよ。BL作家がむばれ。


で、中身だけど。
雰囲気がまず濃厚でね。センスがいいと思わせるのは、ゲイの立場をあまり近しいものとも遠いものともしなかった点か。BLでもゲイモノでも、作者のとってる距離感てのが重要でさ。たとえば、今ヶ瀬の元恋人なんかのヒステリックはなかなか見るに耐えないものなんだけど、それを妙な色眼鏡で見たんではなく、あくまでレディコミ風ドラマティックで演出させてあると思う。ゲイの今ヶ瀬も、別に「偏見ないですよー」的に描いてるんじゃなくって、今ヶ瀬の内面を切り開かせてあって彼の情動が強く伝わる。
たまにゲイモノでゲイ賛美なものもあるけれど、勿論そういう距離もないし、ヘテロ男性の恭一からの視点がかなり活かせてる。
というのも、主人公恭一の優柔不断さから見れる、ゲイ〜ストレートの間での揺らぎが秀逸なんだな。優柔不断であることが、実は重要だったのよ。ストーリーとして彼のキャラクタ性がファクタでさ、ゲイ〜ストレート間の揺らぎが今ヶ瀬と元恋人の夏生(や不倫相手)のどちらに転ぶかの微妙な迷いで描かれてある。それ自体はゲイモノ描くならありきたりだろうけど、恭一のキャラクタ性が、単にゲイヘテロの境界線上だけで揺れ動いてるわけではなく、自分を愛してくれる誰かを探したい求めたいという欲求とそれについての曖昧なスタンスがその揺らぎを非常にドラマティックなものにさせているのよね。


まあ、私からすればノンケの男がゲイセックス出来ないって言うのは、ある意味文化的社会的コードによるもので、セックス位できたって何にも不思議なことはないんだけどね。それはそうなんだけど、ヘテロ男性には容易に傾くことが出来ない境界でもある。だからこそ、最後らへんの夏生と今ヶ瀬を選ぶシーンで「え?迷うの?男と女だよ!」といわれるとひるむんだよね。
でもでも拒めない性格の恭一にとって、今ヶ瀬の熱烈な愛を享受したい願望と、そうすることでのリスクを鑑みて揺れる主人公。そこにこそ、男と男のラブストーリーを狂おしいものにさせた要因があるのね。


それはすごく単純な図式だけど、なかなか演出として思うように効果が得られないのが、今のBLの弱みだとも思う。(逆に強みだとも取れる)
何故その演出に成功したか?
それは、彼の優柔不断というキャラクタ性を巧みに利用し、そこに隠されたゲイの欲望が入り込む隙を与えたから、と推測。
そう、ゲイの欲望とは、本来もっと見られてもおかしくはない。だって、実際そういう場面もあるしね?でも、それは社会的に隠蔽されるべきものとしてなかったことにされる。しかし、勿論この作品では、隠された欲望を見逃すことはしない。いや、今ヶ瀬という愛に狂った男がそうさせなかった。
愛の渇望と、人恋しさと、隠された欲望と・・・。それらがあいまったとき、その欲望は開花し、彼等の中の情熱をも同時に解放させた。


この作品は、すごくドラマティックで狡猾な演出をさせた作品。男同士の欲望と、1人の男の現実とを同時に描きつつ、そこで揺れる様こそを焦点とした。それゆえに、BLロマンスとはどこか違う、艶かしい愛憎劇を(腐的な要素として)効果的に演出できた。


腐は別に対象がBLでなくてもよい。というか、今回これが選ばれた要因としては、リアリティーだと思えるものがあったからだ。それは、本当にリアルだったのか?という問いは不必要で、「男」を斜めから覗ける!と云う美味さこそが需要だったのだ。妄想が引き立てられる。そう、隙間が必要なのよ。


これはね、BLとあからさまに違うと思うのは、半ば客観的なのよ。
作者がゲイを遠いものとも近いものともせず、おまけにBL的ロマンスを用いず、生々しく卑しいほどに男同士の欲望を「提示」した。それが美味かったと思う。

そう、これは、感情移入するものではなかった。BLなら、受けに感情移入、攻めに感情移入して、その高揚を楽しむという部分があると思う。そして、ハッピーエンドにすることで、夢の世界にしてしまい、ゲイの欲望をこの実社会において開花させることの現実を描ききらない。(繰り返すが、それが強みになる事もある。)
しかし、実はこの作品において、そういうファンタジックな感情移入ができるかどうか?という以外にも美味しい部分があって。そう、それが(なかなか描けない)「現実」を覗き見できるという美味さなんだ。


リアルと思える描写で、ふたりの男を横から覗き見する興奮!が味わえると思う。
恭一と云う真実と今ヶ瀬という真実とが、男同士の欲望で繋がった時、現実的なリスクと現実的な未来が待ち受けるだろう。それを、まざまざと描こうとする姿勢がこのコミックにはある。それはもはや感情移入するものではない。私と云う読者は、彼らというキャラクタがぶつかり当惑するであろう現実をリアルタイムで覗き見できる美味しい立場に立てるわけ。なぜなら、男同士の欲望がどのように社会的に隠蔽され、そしてそれが開花するするとどのような意味を持つのか、を実写的に映し出してしまうから。キャラクタ性と(隠蔽などの)コードの融合がそこに成り立ってしまうわけ。(それを消した場合、読者はファンタジックな欲望を消費できるというわけだが。)そう、これはBL的「二人の物語」ではない。あくまで、ふたつの人格が男として男同士の欲望を開花させたことで発生する「現実」を生々しく描写したヒストリーみたいなものなんだ。


実はそうする事で、社会制度に迎合的な類の欲望が満たされるんだ。BLでは、ときに男同士だけど二人は愛し合ってるんだ!という矮小化された二人だけの世界にはまることがあるが、それを許さない描写がリアリティーとして映り、またそれを覗き見できるといううま味が美味しいんだな。


作品が読者と距離感あるものとなる時、実は隠蔽された欲望を覗き見できる立ち居地に立てるわけだけども。それを、恭一と云うキャラクタ性を利用してリアリティーを生み出す方式で実践したのがこの作品だと思う。


無論勝手な解釈だけどね?
(勿論BLの中にも色んな作品がある事は言うまでもないことだ。そしてそれがどう評価されるかも、人それぞれ場合によるんだな。)