BLにおける同性愛事情への現代的答え。

あ、ところでさ。言っとくけども同性愛や同性間のパートナーシップが問題なんじゃなくて、それらを問題化する文化とか社会とか政治が問題なのよ。そこお忘れなく。

俺たちはここで恋をする (ニチブンコミックス)

俺たちはここで恋をする (ニチブンコミックス)

帯。

時を越え、熱く抱きしめる恋。
好評戦国恋愛草子、大幅加筆&描きおろし収録で遂に刊行!!
お茶の稽古をサボって忍びこんだ古寺で、突然現代から戦乱の世にタイムスリップした柳瀬水生。“儂と出会うためにお前は、この時代にきたのだ”という領主鷹景に惹かれる水生だが・・・・・・。

一巻のあらすじは帯と同じなので省略。

俺たちはここで恋をする 2 (ニチブンコミックス)

俺たちはここで恋をする 2 (ニチブンコミックス)

帯。

一生、傍にいる。お前は俺の、命だ――
今度こそ傍にいるよ。ずっとずっと鷹景とここで・・・
描きおろしショートストーリーなどおまけページも充実の大人気戦国恋愛絵巻、堂々完結!

「草子」→「絵巻」?しかし、日輪さんの場合帯で劇的に煽ると何気に内容と印象がずれるような・・・。
あらすじ。

一生、傍にいろ。お前は俺の、命だ――
戦乱の最中、二度目の巡り逢いをした鷹景と水生。「どれだけお前が恋しかったか。もうはなさぬ――」「今度こそずっと傍にいるよ」抱きあい、共にあることを誓いあったふたりだったが、そんななか鷹景に婚姻話が持ち上がって――!?領国と、民と、戦と・・・そしてその間に揺れるふたりの想いは、、結ばれるのか?
大人気戦国恋愛絵巻、完結編!

BLレビュー。

日輪さんって、結局どんな作家と言えばいいのだろうと悩む。・・・ある種「普通」なんだと思う。BL作家として古株であり、ある程度安定した、受け/攻めと物語と絵を読ませてくれる作家さん。しかし不思議な低体温作家だと思う・・・。

で、今回の物語性ですが、戦国時代へのタイムスリップものである。けれどここに凝った設定はなく、科学的なセンスも歴史観的センスも特に感じられない(もしくは不自然なく描けている、ということか)。攻めの鷹景も戦国の領主であるが、架空の人物という設定。舞台がほぼ戦国であるが、割合展開はのどかである。その点も安心して読める。

受けはやっぱり受けらしいし、攻めは攻めらしい。の一言(だからその「らしい」の内容は何なんだ!?)
平凡、軽く意地っ張り、頑張り屋さん、健気、そして自分が女々しいとコンプレックスに思う受け。(しかしどこか怪しい)
強引、軽く王(殿)様気質、大らか、受けラブ。一旦受けと離れ離れになってから鬼と呼ばれ怖れられるようになった。

しかし、タイムスリップものなのだが、彼らがなぜ時を越えてまで偶然に巡りあったかは謎。というか、物語に必然性が置かれていないのね。エスカフローネとも違うし、犬夜叉とも違う。彼らは「偶然などない。全ての出来事には意味がある」と言って、なぜか起こったその出来事に自ら意味づけを与えるのね。つまり、彼らの実存こそが、物語の成り立つ要素となっている。それはこのジャンルでは特殊だと思うのだが、必然性のなさもBLだからこそかも。BLはある意味物語に理由や必然性が薄いと私は思う。それはでも、同性愛自体この社会文化で必然性のないものとしてまなざされていることも関係してるかもしれない。ひるがえって、異性間の性愛関係は無条件的に「種としての本能だから」という(社会的に構築された)「必然性」が世間から与えられている。つまり同性間の欲望(同性愛など)に必然性を見出すことは、この社会ではあまり行われていないし、そのような捉え方も一般的ではない。
「男同士の欲望」を描くBLもまたそれに影響を受けてか、「欲望」の成就という物語に必然性を追求する方向性が薄いのかも・・・?

で、「俺たちはここで恋をする」わけですが、このテーマが希望への一歩を踏み出す力となっていた。というのも、「ここで〜をする」ということは、「ここが生き易くない世の中であろうとなかろうと、その中で自分たちの欲望(存在)を存命させよう!」という姿勢であるから。そういう「ここで〜をする」という前向きな原動力がふたりにはある。だからこそ、彼らの結末が本作のような形で収まったのだろうと思う。
JUNE期はアンハッピーエンドが多かったらしいが、それは「ふたりが後ろ向きだったから」と言い換える事ができるかと思う。
JUNEの「“ここ”では僕らは幸せにはなれないね」という後ろ向きから、BLの「幸せになりがたい“ここ”であっても、幸せになろう」という前向きからのシフトチェンジ!
この作家さんは「普通」と言ったが、その普通なBL作家の作品であるからこそ、そのような前向きな姿勢が伺えることには意味があると思う。現代のBLも、ある程度同性愛や「男同士の欲望」に前向きになれてきたという証なのかもしれない。(大げさ?飛躍?安易?)

以下ネタバレ。
ところで、受けがどこか怪しいです。一巻の話でね、野伏せりの手によって攻め(鷹景)の国にある寺を一部壊されたのね。その野伏せりらと鷹景が紆余曲折の末和睦した後、野伏せりらは自ら寺を修復するのです。その話を聞いた受けの言葉が、なんだか妙なんです。

「彼らが壊したんだから当然だね」

・・・いや、正論なんですが。そういうことではなくて。
マンガの主人公ってある意味純朴なんです。野伏せりらによって被害を被った受けたちは、純朴な善人であるはずなんですね。そういう主人公というポストにあるキャラクタって、普通こういうこと、言わなくないですか??純朴善人であるはずの主人公キャラは嫌味なんて言わないよ!!!とか思うんですが。。。
受けは素の笑顔でこう言っとりますが、ちょっと怖かったです。

私これ、作家さんの本音がキャラクタに移っちゃったのかなぁと邪推してみたり。私が感じる作品の微妙な低体温加減は、作家の温度が伝わった結果なのかも?とか。(邪推)

nodada's eye.

  • 男らしさの肯定。

受けは攻めに何かをしてあげられる自分になりたいと思う。同時に自分にコンプレックスがあって、やたらと「男らしさ」を追求しようとしているのね。受けは茶道をやってるけれどそれを女々しいと思い、攻めのように武芸に長けたいと願ってる。そこで攻めの一言。

「人には得手不得手があろう 武芸ができぬものはみな男らしくないのか? 儂はできることを極めることのほうがよほど人として素晴らしいと思うがのう」

そしてこの「自分に出来る事をやればいい」というメッセージがエンドマークに繋がっていくわけね。(「なぜ自分は過去の時代で生きていくのだろう」→「すべてのことに意味はある。それはきっと明日に繋がる何かを残すためだ」→「ならば、自分に出来る事を精一杯やっていこう」)

男らしさなんてものの定義は文化によってまちまちなわけだが・・・。彼らはそれに対する自分の答えを柔軟に導き出している。
どの「男らしさ」を肯定するか/あるいは否定するかではなく、まず「人としてどうあるべきか」という自分の実存に働きかけるような問いを打ち立てている。
男らしさ女らしさを追求するのもいいけれど、まずそれをして自分はどうありたいのか、自分はどうある事が良いのか、という自分自身のプライオリティを忘れないスタイルでいるのは重要だと思う。ナイス。

  • 同性間パートナーシップの肯定。

(以下の話は戦国の話ですが、おイエ制度と結婚制度のある異性愛奨励の現代の背景と移し変えて読んでみてください)
攻めは領主なので政略結婚話が持ち込まれるのだけど。受けにはその縁談は民のためにもなるように思えるし、「自分たちが一対一のパートナーシップを保ちたいからって、民を犠牲にしてまでそんな事を押し通すのは自分勝手なワガママなのではないか」と案じるのね。そして、一旦は未来に帰ろうと試みる。が、攻めによってそれは砕かれ、受けは戦国時代に留まる事になる。“ここ”で生きるわけだ。
結局、攻めは縁談を破談にして相手側(北川)の国と戦になるわけだ。そしてその戦に勝ったあと、受けにこう話す。

「北川と同盟致さば相手の願いを無下に断れぬ 上洛する北川に力を貸せといわれればいやが上にも戦の数が増え そうならば税や兵役など民への負担は増すことになろう[・・・]儂は山湖の民をそのような目に遭わせたくない」
同盟すればいことばかりだと思ってたのに

ここでは作者の采配により偶然結婚しない方がよいことになって、受けの心配は杞憂に終わる。ある意味、「じゃあその縁談が民のためになるのだったらどうしたの?」とも思うが、とにもかくにも、作者は同性間パートナーシップを肯定して見せたわけだ。
そして、現代では異性婚(+法律婚)が奨励されているが、しかしその制度に乗れば必ず上手く行くとは限らないよね。結婚したら無問題ってわけじゃなんだし。その意味で、彼らのこの偶然の結果はちょっと納得できるものだったり。「そうそう、いいことばかりじゃないよね」ってね。

で、次。

「でも それじゃ跡継ぎは・・・?」
「さようなもの 良仁を還俗させて継がせてもよいし 嫌がるなら養子をとればよいのだ 嫡子が必ずしも有能とは限らぬからな」

良仁というのは、鷹景の異母兄弟であり、元々家督相続の権利を有してた人なのね。(還俗とは出家したものが俗世に再び下ること)これもご都合主義な作者による采配とも言えるが、ある程度うなずける。
・・・・・けど、これってやっぱり自分たちは犠牲にせず、兄弟を犠牲にした・・・とも言えるのかしら?まあ、本人が了承したことならいいのかもしれないけど・・・(-w-)どうなんだろう、評価していいのか微妙・・・。やー、やっぱり問題ありだろ、これ。まるで、自分たちさえ良ければ他はどうでもいい、って態度だもんなぁ・・・。いやー、微妙。とりあえず、養子をとる件、もう一度再考してみてください。(とここで攻めに頼んでみる)

  • 同性間セックスの肯定。

これはいただけない。こればっかりはいただけませんのことよ!

「お、俺は・・・っ 女じゃないんだぞっ!!」
「わかっておる」
「じゃなんでこんなことするんだよっ」
「だからするのではないか」
「・・・は?」
「男同士の交わりは神聖なものだ心と心を 絆を深めるための交わりだ 子を成すための交わりしかできぬ獣とはちがう 人だからできる交わりなのだ」
「・・・・・・・・・」
そういうもの?

そういうものじゃありますぇん!!!と私は言っておくw

ひー、ひー、なんて異性愛嫌悪的な同性間セックス肯定パフォーマンス。。。これはいただけませんわ。
大体、人以外にも同性間で交わってる動物なんてのも、いますがー?
こういう同性愛神聖視って気持ち悪い。要するにアレでしょ?「同性間セックスは肯定できないものだから、異性間セックスを否定することで自分を何とか肯定しよう!」としてるんでしょ?他人を否定して自分を肯定する常套手段ですよね。でも、その問題設定自体おかしくね?セックスなんてセックスってだけじゃん。実はね、攻めは頭の中で「セックスとは異性間で行うもの」「セックスは生殖のための行為」って固定観念に縛られているんだと思う。だから、その「常識」からあぶれてしまう同性間セックスを、異性間セックス否定することでしか肯定できないわけじゃん?でも、別にそんな前提成り立たないよね。

  1. セックスは異性間だけのものじゃない。

どこにいきましたか?
自慰は?同性間セックスは?男でも女でもない人とのセックスは?獣姦は?
どこにいきましたか?

  1. セックスへの欲望は生殖と必ずしも結びつくわけではない。

実際異性愛者のセックスへの欲望だって、生殖に結びついてないもの多いじゃん。ていうか、「セックス」という欲望自体、そのほとんどが実際には生殖と結びついてない。


私は同性愛を肯定するのに異性愛を否定する必要なんてどこにもないと思うよ。神聖な行為じゃなくてもしたけりゃしようよ、同性間セックスくらい。(未成年は?っていう問題もあるが)
つーか、私は同性愛神聖視は警戒します。だって、あれって大抵が同性愛擁護に見えて単に同性愛嫌悪の裏返しだもん。あのさ、攻めは必死こいて男同士でまぐわるのは良いことだ、って言いたがるけど、それってつまりわざわざ必死こいて肯定しなければならないほど、自分自身が同性愛同性間セックスをどこかで否定しているってことだもの。否定的な気持ちがなければわざわざ神聖視も肯定パフォーマンスもする必要ないでしょ?それをしてるってことは、どこかで否定しているから、それを何とか覆したくて理屈を付けてるだけでしょ?そういうのに自覚的でないから、他者を否定することでしか自分を肯定できなんだよ。
・・・マイノリティは自分を否定し続けられてきた存在。マジョリティはしなくてもいい「自己肯定」ってやつを、マイノリティはわざわざしなくちゃならない。だからって他者を否定することからじゃ本質的な解決は生まれないよ。


ここらへんの表現は、同性愛や「男同士の欲望」に肯定的になれたBLであっても、ちょっと評価できないなぁ。