父と職人気質と男らしさ、というオカマ。

写影が出ないよ!そのうち出ると思うよ!
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ありえない二人 (バンブー・コミックス 麗人セレクション)

ありえない二人 (バンブー・コミックス 麗人セレクション)

あらすじ。

一点物のカバンが縁で知り合った鞄職人の鈴木とwebデザイナーの北原。正反対の性格の二人だったが意外にもウマが合い、鈴木の工房に二人でいるのが日常となっていた。互いに互いを意識し始めた時、二人の間に存在する思いがけない事実が明らかに!?
見えない振りをしていても本当はわかってる、この気持ちの正体を・・・オトナの恥ずかしい恋がタップリ詰まった待望の最新作品集!!

帯。表。

山田ユギ魅惑の作品が連続発売!!堪能の秋になりました。描き下ろし付き! 山田コミックス祭り☆ 詳しくは後ろをご覧ください
見えない振りをしていても本当はわかってる、この気持ちの正体を―――。
頑固な職人と軽薄なwebデザイナー、接点なしの二人を結びつける運命の糸は?

帯。裏。

3冊連続発売を記念して、お楽しみ描き下ろし企画を展開中v
11/1リブレ出版「最後のドアを閉めろ!?」新装版
11/1リブレ出版「開いてるドアから失礼しますよ」新装版
11/7竹書房「ありえない二人」新刊
全てのコミックに、同じ舞台で繰り広げられる描き下ろしがついている!!

そもそもBLの魅力ってなんだろう、と思う。

私は「男らしさ」というのは、何か形の定まった固定的なものだとは捉えていない。というか、なんの「らしさ」にしても、それは文化としての構築性があるわけで、構築された以上、それが絶対普遍(不変?)なものであるとは言えない。そして、いや、「しかし」(!)、普遍の価値でないにも関わらず、それには何かしらの統制という力動が働く。「らしさ」が私たち集団を何らかの形で動員し、縛り付ける。社会的にも、文化的にも。そして、それが規範となっている場合、その規範を犯すと何らかの制裁が加えられる。そういうものに対して、反省的にならざるを得ない部分はあると思う。けれど、とかく「男らしさ」というものには、そういう反省する必要はあれど、その「魅力」に囚われてしまい、反省することが疎かになる時が多い。いや、私などがそれなんだ。「男らしさ」というものには、たとえば他の「らしさ」を否定することが、ままある(「男らしさ」に限らないんだけども)。
泣くという行為が「男らしさ」により否定的に見られるのが典型であるように、たとえばそれは「正常位でセックスできない男(正常位という姿勢をとることが難しい身体を持つ者)は男らしくない」だとか、「男を愛する男は男らしくない」だとか、そういう、いつの時代でも男が持っていた/いる様々な要素を「男らしくない」という言葉で否定するような、そんな排他性がある。そんな排他的な「男らしさ」を見るにつけ、かくも「男らしさ」とは会得困難なものであるのかと思うが、しかし一方でそういう「男らしさ」を肯定するかのように愉しむ人たちが、多くいる。たとえば、私たち腐の人間もその内のひとつだ。時には「男らしさ」が問題性のある「らしさ」であり、たとえ「男らしくない」ことを理由に様々な人の持つ差異を否定したり(あるいは積極的に奨励したり)と、私たちの意識を統制するとしても、それでも、「男」を欲望するこの私は「男らしさ」の魅力に抗えない、・・・時もある。たとえば、暴力的なのが「男らしさ」であるとする。その場合、男に暴力を振るわれた時、私は「男らしさ」の魅力を“見せ付けられた”と感じて、何らかの性的高揚感を得る/得たかもしれない。しかし、そのような「男らしさ」を無批判に許容していいのだろうか、という『不安』を感じずにはいられない。

時にBLとは、「男」の魅力を追い求める文化の内の一つだとも思う。もちろん、それがBLの核芯であると、単純に言いたいわけではない。だが、BLもまた、そういう「男らしさ」を作り、そして支える文化の一つなのだ。そのBLは、私のように「暴力性」を「男らしさ」に置き換えたことも、あったかもしれない。しかし、BLはただそういう文化的「男らしさ」に追従するだけの文化であっただろうか?私はそうは思わない。決してそうは思わない。革新したこともあったはず。
たとえば今回のコミックスに登場する鈴木という男の「男らしさ」がそれだ。
この鈴木という男、鞄職人だった父の後を継ぎ(父の名を継ぐ、だなんて、とっても「男らしい」!)、その父の「職人気質」をも受け継ぎ、たとえ量産性のある、つまり金になる仕事を持ち込まれても、「その仕事を引き受けることで、これまでの仕事のやり方を変えてしまったら、父から受け継いだ仕事へのこだわりに反してしまう!」として、跳ね除ける。なんて「職人気質」な男でしょう!仕事のためなら食べるための金まで顧みず(<矛盾)、職人としての意地を突き通す!この頑固で一徹な仕事への姿勢・・・、なんて「男らしい」のでしょうか・・・。(しかし、そんな儲からない仕事のやり方をする攻めを、バックからサポートする受け。この受けへの感謝も忘れないあたり、この攻めはなんて憎めない素晴らしき男か!)


そんな山田ユギさんの描く職人気質な攻め様は、いつもどこでも、何かしら「男らしい」のです。

そう、受け(←男!)の長いまつげに見惚れてしまった時も、目蓋を閉じた受けに吸い込まれるように接近してしまう時も、そして受けのペニスを食む時も、どこか「男らしい」のです。男の唇を求めるその姿を見て、私たちは「男らしくない!」と、思うでしょうか・・・?いいえ、思いません。「ムーディーな空気の中、受けの唇に近づいてゆく逞しいその相貌!なんて萌えることか!」と思うのではないでしょうか?(え?「それは私の萌えではない」って?・・・あれ、そうですか?おかしいな。。。)
あまり口が達者なわけではなく電話が苦手で、無駄なことは喋らない不器用な攻め(「不器用ですから」!)。しかし、決める時は決める。口説き落とす時も、とても率直で真摯で潔く、なんて「男らしい」のでしょう。ただし、口説いている相手は男です。BL読みはどうか知りませんが、世間一般では男を口説く男は男らしくありません。そういう、男を愛する男は、まま「オカマらしい」とさえ言われることもあります。ですが、この攻めはひたすらに「男らしい」。
・・・・・・・・・。
どういうことでしょうか?「男らしい」はずの鈴木が、いつの間にやら「オカマらしい」のです。一体どこで逆転したのでしょう・・・。いいえ、逆転などしておりません。この攻めは、ひたすらに職人気質で、男らしゅうございました。何も変わってはおりません。そう、それなのに「男らしい」。
はい、つまり。この攻めは、「オカマらしさ」を携えた、「男らしい」男なのです!なんて素晴らしい事でしょうか・・・っ!この攻めは「オカマらしい」が故に、「男らしい」のです(>u<y
・・・そんなわけで思うのですが、BLという表現の中では、「オカマらしさ」は「男らしさ」なのではないでしょうか!!?
「オカマらしい」その行為は、いつの間にやら私たちの中で「男らしさ」と結びつき、そうした結果、世間一般的な「男らしさ」の内実を革新してしまっているのではないかと・・・。


・・・・それでは。今回、「職人気質」という「男らしさ」をも、「オカマらしさ」に作り変えてくださった山田ユギさんに、盛大な拍手を送りたいと思います。ありがとう!「職人気質」という「オカマらしさ」を描いてくれることで、私たちの“萌え”を満たしてくれた山田ユギ先生、ありがとう!本当に、ありがとう!


では、詳しいレビューはまた後日にてよろしく!(続きは近日中に予定。)