トライアングル式・愛の生成。

俺を抱いて眠れ (リーフノベルズ)

俺を抱いて眠れ (リーフノベルズ)

カバーイラストの頬染め受けに惹かれて購入。年下+俺様攻め×元気受け。

帯。

こいつは――俺の男だ

あらすじ。

男気溢れるホスト・拓真は、ある日酔って男と一夜を共にしてしまった。その相手―蓮はなんと溺愛する弟の同級生で!? 人気高校生モデルでもあるという蓮は、他人の前では優等生を演じているのに、拓真に対してのみ強引で傲慢に接してくる。そんな蓮が本当は孤独なのだと知り、振り回されながらもついついわがままを聞いてしまう拓真。だが、どうやらそれも彼の作戦のようで…。

感想は後日。本当に御免なさい!!でもちょっといつものレビューにはなりません。明日また書きます。平に平に。。。

えっとね、まず受けがデカ受けなのね。攻めとはほとんど同じ長身。ホストです。
攻めが強引で、喧嘩ばかりします。でもそれが彼等の持ち味みたいで、お互いやりあわないと落ち着かないって感じかな。対等に喧嘩したりする、そういう関係を求めてる受け。さんざんお預け食らっていきり立つ攻めと少し抜けてる元気な受けとの攻防戦。攻めも少し可愛いところあったりします。そゆのが好きな人には単純に面白いかも。
ただ、攻めが受けを好きなのはひしひし伝わるんだけど、どうもその理由の肉付けが曖昧な気がする。そこらへん最後でハッキリさせてほしかったかな。


以下ネタバレ。そして本筋ではない感想です。


攻めは有名なモデルさんで、かなり人気がある。そして、攻めは受けの弟と親友だ。攻めに執拗に追い回されることで、振り回されているけれど、どこか憎めない感じがしている。押されてばかりいる内に、攻めのことを少しずつ知っていく。
で、受けはふとしたところで攻めを好きかもと思うようになる。
しかし、この時点で攻めの受けに対する感情がハッキリしていない。攻めは事あるごとに受けに「俺の抱き枕になれ」と云う。そして、攻めがあるとき、有名女優との熱愛報道をされちゃう。そのことでもめだすんだけど、「あの女優はセフレだ」と言われる。で、話がさらにもめだして、まるで男を抱くのは都合がいい、だからお前を抱きたいんだよ、みたいに言われて受けが切れる。自分のこともセフレのつもりで追い掛け回していたのかと憤る。

 ―どうしよう。どうしよう。俺、こいつのことが好きなのかもしれない。
 それは友情や同情といった曖昧な類のものではなく、もっと核心に迫った感情だ。
 独占されることや、我がままを言われることが嬉しい。誰も知らない蓮を知っている、ということに優越感と喜びが溢れる。蓮を大切にしたいし、彼の特別になりたい。
 だけど蓮はどう思ってるだろう。
 男相手に本気になるヤツなんかいないと、蓮は言い切った。松嶋あゆ美をセフレにするぐらいだから、自分のことも都合がいい性欲処理としか考えてないのだろう。
 抱き枕になるのはいい。でも、セフレはいやだった。

ここでは、友情を曖昧なものとしている。が、それは個人によって様々な意見があるだろう。それでも、彼は攻めを好きな感情を、「友情とは違う曖昧ではないもの」と位置づけている。そして同時に、好きな相手とはセックスをするだけの相手ではない。と位置づけている。セフレでもなく友情でもない感情、それがハッキリした好きの感情なのだというのだ。
そして、受けはまたこのような発言もしている。
自分の客である女の子たち。と同時に仲のよい友達でもあるふたりに対する言葉。

ユキとナツミは同じ風俗店で働いていて、拓真が新人の頃から指名客。イロコイ抜きの気さくな友達のような関係で、三人でのアフターや同伴もしょっちゅうだった。
 拓真も彼女達の事を気に入っている。だからこそ、どちらかと寝るなんて考えられない。

と言っているわけだけども。
これを見ると、受けの中では友情とセックスは分かれるものらしい。では、受けの攻めへの好きという感情は、一体どういうものなのか。

友情を曖昧なものとしたが、では恋愛感情はどうなのか。セックスをするだけが恋愛感情ではない。けれど、友情もまたセックスとは距離があるのだ。距離があるのはどちらも同じだ。
では友情と恋愛感情とはどのように隔てられるのか。
私は思うに、これは三角関係の相互補強の関係なのだと思う。
恋愛感情が一体どのようなものなのか具体的にはわからない表現しかない。その上、一体どういう点で友情と恋愛感情が分かれるのかも不明ときた。
最初の引用部分で、友情に対する解釈と云うのは特になかった。あるのはせいぜい友達とはセックスしない、という二個目の引用部分だ。ここでは友情と云う感情がまず不明なのだけれど、最初の引用部分でわかるように、受けが攻めに対して芽生えさせた恋愛感情を根拠に、友情と云うものを曖昧なものとして位置づけている。つまり、友情は恋愛感情によって定義付けられているのだ。受けが攻めに抱いた感情よりかは「モノガミー性がなく、固執する感情ではないもの。それが友情だ。」と定義付けてしまっているのだ。だって他に友情と恋愛感情を別にする根拠は提示されていない。そのことから、友情は正に、受けが攻めに対する感情を認めたとき初めて、「曖昧なもの(そして恋愛感情よりかは固執しないもの)」としてその内実を付与される。
どういうことかと云うと、友情は恋愛感情により逆説的に意味を補強さるんだ。
では、受けの攻めへの感情はどうか?恋愛感情とはっきり書かれてるわけではないのだが、ただ「好きなのかもしれない」とだけ書かれてある。ここでも、友情同様一体どのような定義なのかは、実は不明瞭だ。
受けは弟に対する可愛いと思う感情と、攻めを可愛いと思う感情とを、なんら理由をつけずに違うものだと言う。それは弟は弟で、蓮は蓮だから、と云う一見分かりやすいようで、それこそ曖昧な根拠だ。
このように、攻めに対する感情でさえも、何ら説明はされず、それぞれの感情とどう区別されるのかの根拠は提示されないまま。
しかし、ここでも友情と同じことが言える。
つまり、
弟に対する感情ではない
友達に対する感情ではない
セフレに対する感情ではない
この調子での、好きの感情の意味付け定義付けがなされてあるのだ。
ここからわかるように、どちらの感情も逆説的なのだ。


ここで、ひとつの構図を提示をしよう。
誰かを思う事、それは一見一対一のように思われる。たとえばBが好きだ、と思うAの感情は一方向のように思える。しかし、ここでは、Bを見るということで、逆を言うとB以外の者は見ないと言う選択がなされてある。
皆さんもわかるように、誰かを好きになったとき、必ずその他の大多数とは区別した形で、その個人を見るだろう。
そう、つまり
1、自分
2、相手
3、他者(その他)
という三点が欠かせない、それが欲望のベクトル形式なんだ。
たとえば、ふたりの男が居る。このふたりは男同士で同性愛の関係を持つ。このとき、ふたりにとっての他者とは何か。それは、女だ。確実に自分達の欲望とを別にするのは、女の役割となる。男ではない者。そして、欲望する相手ではない者。こういう他者をおくことで、1自分(男)2相手(第二の男)3女(他者)の三角関係になる。
この三角関係の中、お互いが逆説的に1ではないもの2ではないもの3ではないもの、と説明することで、お互いを区別し、お互いの立場性を意味づけして補強する。「他の誰でもない貴方を好き」というときの自分の感情とは結局どういう形をしているのか?それが不明瞭だ。でも、ここで女を立たせることで、女(他者)とは一線を隔したもの、という説明が付け加えられ、はじめてその感情に立体感が生まれる。これまで一対一であった形の不明瞭な欲望は、他の立場を置くことで逆説的に補強される。

相手の男を欲望することで、相手の事を「女という他者ではない者」と位置づけて、一対一の欲望のベクトルを成り立たせる。女という他者が、この2点を逆説的に支えつつも、意味付けをするのだ。
では、受けと攻めとの間にはどのような三角関係があるだろうか?
自分と恋愛感情と友情。
この場合の三角関係は、この三点だ。
これもまた、この三点がない限り、それぞれの感情が立体感を持たず不明瞭で、単体としては確固たる欲望になりえない。
だから、友情が恋愛感情を、恋愛感情が友情を、お互いに補強する。自分が欲望する恋愛感情(相手)とは、友情(他者)ではないものだ。そのように説明をすることで、自分と恋愛感情との関係を明示させるのだ。単体だけでは、自分が抱く恋愛感情と云うものは、その内実を捉えきれないものであったのに、ここに友情を置くと、その中身がクリアになる。
このような三角関係の欲望形式が、恋愛感情や友情と云う、単体では説明しきれない感情のベクトルを立体化させているんだな。
などとこの話での展開を読んで思った。


ところで、私は自分の中の、(他人から言わせれば)恋愛感情に見えるだろう感情に、恋愛感情とか愛とかの名前をつけたくはない。
私はむしろ、そうやって名前付けられたものの中に、どのような具体的な要素が含まれてあるのだろうか?という部分に興味をそそられるし、「名前」をいまだつけられぬ感情と云うものが見てみたいのだ。そして、それこそを大事にしていたい。
三角関係の中ではない感情の発見。愛と云う言葉によって形付けられ名づけられてしまった感情、そこで一まとめにされてしまった個々の感情の発見。それを試みたいのだけれど・・・。
愛という名前の無いままの感情を、自分の中に持つことは、果たして可能だろうか・・・?とか思う。