BLでSM書いてみよう。

ゴメン、途中でうpしたけど、最後の方で更に考察を追記しました。よければ読んでくだちい。

おしおきは愛をこめて (ビーボーイノベルズ)

おしおきは愛をこめて (ビーボーイノベルズ)

お、写影出るじゃんv
あらすじ。

 目が覚めたら・・・そこはベッドだった!!身動きできない全裸の俺を見下ろしているのは、優しく可愛い先輩講師の浅野さん。にっこり微笑んだ彼が「愛してあげる、快感が苦痛に変わるまで」と取り出したのは、皮製のムチ―――って、一体どんな状況だよ、これ!!
 和希のエロティック☆コメディ! ラブ&エッチ満載の番外編も二本収録 

「変わるまで」と収録の後にハートマーク。

BLレビュー。

挿絵が寿たらこ先生だー。わーい。しかも見て見てー。攻めがやたら私好みー。(あら、聞いてない?)
結構攻めが可愛かった。犯される攻めとか大好物。これ読んでるとき、丁度海外ドラマ見てて。アメリカンなマッチョいダンディ男性を見ていたのですよ。わー骨格が違うなー、とか、あの胸毛引きちぎったら痛いかなーとか。そういう西洋型のマッチョ男性を描く上で寿たらこ先生はかなりお上手なんだよねー。この挿絵でも攻めのデカイ図体と隆々とした筋肉がすごく可愛く描かれてました。(筋肉って可愛いよね)
んで、アメリカのドラマも独特な“ノリ”というか口調というか、そういうアメリカ感が漂ってるじゃん?(アメリカの人っていつもあんな口煩いんだろうか、みたいな)なんかそういうノリをこの小説(のキャラと口調)からは感じられて。なんかソレが読みやすいっツーか、微妙に大げさな感情表現が感じられて面白かったのさ。
コメディで軽快なBL楽しみたかったので、丁度程よくそんな感じで読みやすかったです。

攻めと受けは塾講師です。バイトから正社員として入社した攻め駒崎。同じくバイトから塾講師になった優秀な先輩講師の受け浅野。
彼等は実は初対面から惹かれあっていて。攻めが受けを想って夢精してしまったり、若々しく優しく清廉で魅力的な女神のような(攻め談)浅野にどんどん落ちていくのだけど、男なのに!と思って恋を打ち明けられない(攻めは巨根で女性とうまくセックスできず悩んでた一応ノンケだったかも?な人。)。
受けは日々思いをつのらせパンクしてきている攻めを心配するかのように労わり相談に乗ろうとする。でも相談なんて本人に出来ないので断る攻め。しかも受けはどうも上司の女性と付き合ってると噂されている。
悶々としていた攻めだが、ある日受けと残業をしていたら受けに一服盛られて眠りこけ、目覚めたら仮眠室で全裸で手を縛られた状態になっていたという、なんともセンセーショナルな展開・・・w 受けは実は女王様だったのです。(でも結構可愛い性格してます
んで、女王様受けとワンコへたれ攻めの話は進む・・・。

一人称で進むコメディタッチのストーリーで、絶倫受けに翻弄される攻めの話となっている(でも後半の話では受け視点で進む)。BL小説の醍醐味である濃すぎる愛を感じる話というより、とんでもないキャラたちとのノリを楽しめる感じの話だよ。んで、後半いく毎にかなりアマアマなバカップルになってきます。お互いぞっこんでベタぼれv 一息少々プレイの濃いBL読みたければどうぞー。
(以下ネタバレ注意)

ちょっと引用。

 「・・・な、なに飲ませたんですか」
 「大丈夫。毒じゃないから。ただの催淫剤」
 やめてーっ。そんなもの本人に無断で飲ませないでよーっ。

でよーっ、とか・・・。君面白いから。

 「これ、食べたいの?」
 こくこくこくと何度もうなずくと、浅野さんはにっこり笑った。
 「まだだめ」
 舌が届かないぎりぎりのところで、ジューシィで美味そうな果実が揺れている。これはもう拷問だ。

じゅうしい、・・・ですか。そうでつか。いやでも縛られて快感に耐えてる攻めとか素敵・・・。

 快感が苦痛に変わるまでいたぶる、浅野さんの愛しかた。俺はいままさに、愛情の集中攻撃を受けている。このままでは腎虚か腹上死だ。でも・・・。
 「駒崎君」
 目をかるく閉じてキスをねだる、かわいい年上の恋人。ああ、かわいい。愛している。愛、愛、愛している。
[・・・]
 でもいいかげんに体を休ませないと、早死にしそうなのはたしかだ。ああ、でもでもこの誘惑は断ちがたい。
 「駒崎君」
 浅野さんの細くてきれいな指が、俺の胸のシャツのうえから『の』の字を何回も書く。微妙なタッチのしかたに、思わず喘いでしまいそうになった。
 「わかりました」
 ため息をついて降参するしかない。頼むから胸に『の』の字はヤメテ・・・・・・。
 「わーい 駒崎君、 大好きー」

最後のセリフには行間にハートマークが・・・。ひー、あさぎり夕先生なら星マークやハートマークをセリフに入れるそうなんだが、この作家さんでも見られるとは・・・。

しかしこいつら、本当にSとMかなぁ。確かにそんな感じではあるけど。受けは女王様というけどソフトSMの女王らしい。攻めもMというには暴走してそれなりに女王に対して非礼をしてるようにも見えるんですけどー。つーか『ノーマルセックス』してるじゃんー。私M寄りだけど、自分からどうこうするのでは満足出来ないのがMらしさではないのか?受けもSとか言ってるけどどうなんだろう。だって、

 拘束ベルトで駒崎君をすごいポーズにしたてて、目で鑑賞してから写真に撮りたい。恥らう駒崎君は、きっとものすご〜くキュートにちがいない。さらにさらに、夏のボーナスが出たら八ミリビデオも買おうかな。動く映像で駒崎君の卑猥な肉体を撮りまくるぞ。 

てくらいなら私だって思うもん。そりゃあこんな素敵な旦那、縛って撮らにゃ損だろう。
どうも受けは女王様気取ってるだけのなりきりちゃんじゃないのかぁ?うーむ。
でも本当ふたりメタ惚れだったなー。
しかし。一日に五回六回もしてるとアナルもだけど(攻めの)海綿体擦り切れるぞ。しかも攻めはそのせいで体調不良で仕事休みがちになって(最悪)それをフォローする受け。すごい!小中学生相手に塾講師してて、絶えず大声張り上げ授業し、さらには他人の残業までこなしちゃうバイタリティーはもはや現実のものではないね!それだけで君はチャンプだ!

nodada's eye

この話自体、ちょっとSMとは言いがたい気もするのです。苦痛になるまでやり続ける責め苦もある意味Sかもだけど。でもまあそれでも一応SMを取り上げたBLとして本作を読み解きましょう。

BLでは同性愛を乗り越えるハードルとして描くことがやはりあるのですね。この場合、『変態性』を愛の力で底上げ・ごり押しし、至高の愛へと昇華し描く手法が色々と使われる、ということなのです。
この場合もその手法がSMに対しても施されてる感じがします。
(念のため言っておくけど、同性愛を変態と読むことは同性愛者からは当然嫌われます。私はBLの表現を多角的に読み解くために、あえて“変態と普通”の図式で読解しています。)

受けはSなのですが、しかし後半になるにつれ『ノーマル』と言われるセックスを好むようになるのです。攻めのさまを見てるとどうしても女王としてセックスできず、BLにありがちな(そして男女の性描写にありがちな)「上下」のセックスを嗜好してしまうのです。SMプレイからノーマルプレイへ。変態から普通へ。
これはある意味、同性愛から異性愛へ、という移行を示唆しかねない描写です。変態な欲望から、皆が誉とする喜ぶべき『普通』のスタイルを獲得するのは、つまり同性愛という一過性の『病気』から正常な『異性愛』へと戻る仕組みをまるで体現してるかのようです。私の目ではそのように読み解けたのですね。

 僕は浴槽の縁に手をかけて、駒崎君に下半身を突き出した。こんなポーズ、プライドの高い僕にとっては屈辱以外のなにものでもない。でも駒崎君相手なら、いくらだってできる。

 僕はSの女王様だったんじゃないのか? ゲイのうえに君臨する居丈高な女王様だったはずだ。屈強な男を屈服させて支配して、もてあそぶのが最高の快楽だったはずだ。
[・・・]
 より多く愛したほうが負けなんだろうか。僕は駒崎君を愛しすぎて、Sとしての威厳を失ってしまったのだろうか。

このように変態性がまるで薄れていくかのような受けの変化が見られるのね。
で、ここではノーマルセックス的なものの魅力がどんどん開花していくのよ。SMプレイよりもこっちのほうがより魅力的で素敵だ。そんな印象を持たせるような、受けと攻めは本来こうなるべきなのだ、という正しさを提示されたような・・・。そんな移行が見られるように感じる。
僕はここでこの移行の様子を“変態から普通へ”のセオリーと読んでいた。つまり、同性愛から異性愛へ、というものの相似形。
けれど注目したい箇所がある。
このままではSの威厳を保てずMのはずの攻めに見限られるのでは?と迷っていた受け。そしてそれでも互いの愛を確認して、その愛し方について話し合い、和解するラストの話。

 「不満なんて、思うはずないでしょう」
 「本当に?」
 「本当です。嘘なんて言いません。白木さんに相談するまえに、俺に話してほしかった。なぜ言ってくれなかったんです。しかも、あんなSMクラブまで行って・・・」
 [・・・]
 「SMクラブへ行ったのは、話をだれにも聞かれたくなかったから、あそこが最適だろうと思っていっただけだ。あそこでだれかと遊ぶつもりは、まったくなかった」
 「ホントですか?まさか白木さんといっしょに・・・」
 「白木さんとなんかするわけないだろう。あの人、オンナだよ?」
 気持ち悪い。

ここで異性愛より同性愛が良いとされる表現が出る。つまりあくまで本作は同性愛の物語として生きるのだ。これが次の部分へと繋がるとどうか。

 ああだめだ、欲望ばかりが先に走って、ゆっくりいじめるだけの余裕がない。
 こんなの理想的なSMプレイとは程遠い。Sに余裕がなければ、満足のいくプレイにはならないのに・・・・・・・・・。
 たしかに僕はS気質。駒崎君はM気質。だけど普通に抱きあってても勃起するし、あふれるばかりの愛情でイキまくれる。いまだって、駒崎君の拘束を解いて、すぐにでも抱きしめてもらいたいと思っている。そのそそり立つ性器をしゃぶってあげたいと思っている。SMなんて関係ない。ただ、美味しい愛を味わいたい。駒崎君は僕にとって、愛の女神だから・・・。
 [・・・]
 「これはずしちゃおうか」
 「いいんですか? こういうことをしたかったんでしょう?」
 「うん。したかったけど、いまはいい。またこんどね」
 [・・・]
 「ねぇ、駒崎君。僕のこと、好き?」
 「なにをいまさら言ってんですか。決まってるでしょう。大好きです。愛してます」
 「じゃあ、セックスが必ずしもSMチックじゃなくても、いいよね」
 駒崎君はあきれたような顔をした。
 「浅野さ〜ん、もう、いったいなにを確認してんです。俺は相手が浅野さんであれば、たとえどんなやりかたをしたって、最高に感じることが出来ますよ。そんなこと、一番わかっているのは、浅野さんでしょう?いままでのセックスがそうだったでしょう?」
 そう言われてみれば、その通りだ。
 「自分がSだから、Sらしくしなくちゃいけないってことは、ないですからね。ここは自宅で、相手は恋人である僕です。型に填めようとしなくてもいいんです。SMクラブのSMショーじゃないんだから。そのときやりたいセックスを、無理のない、リラックスした最高の気分ですればいいんですよ」
 素直な駒崎君らしい、気負いのまったくない言葉が、心に沁みる。
 「・・・そうだね。一番大切なことを忘れていたみたいだ。」
 僕たちは恋人同士で、いっしょに暮らし始めたばかりの新婚さんみたいなもので、好きなだけいちゃいちゃしてもいいってこと。

ここではまた普通を賞賛する向きが再度浮上する。しかし!それは恋愛という愛の前ではどんなモードも無効化するといった理屈で行われる『移行』だ。(ちなみに「填める」という字は実は難しい方の字です。なんだろう、この人の文体は。変なところで漢字にしないし、変なところで難しい漢字だし・・・)

 こんな受身の愛撫、駒崎君とつきあう以前はほとんど経験がない。[・・・]
 僕の中のS気質が消えたわけじゃないと思う。いまは相手が駒崎君だから、安心して身を委ねられて、リードされるのを許しているんだろう。意識してそうしているわけじゃないけど、たぶん駒崎君だけができること。
 [・・・]
 駒崎君は特別。無意識のうちに、僕の中でそう位置づけられていた。
 僕の大切な、大切な恋人・・・。
 [・・・]
 「困ったな・・・。女王様の貴方も最高にきれいだけど、こんな風に腕の中で泣いているあなたも、ものすごくきれいですよ」

そして結局アダルトグッズは捨てられなかった。

この一連の流れをどう読むべきだろう。読み方は一つではないとは思う。これをやはり、変態から普通への移行だ、として読むことも出来る。
けれど読み返してみると思うのだが、これってBLにありがちだとされる論法と似てないか?
同性を愛してしまった。禁忌を犯した。それでも二人の愛の前では全てが無効となる。愛こそ全て!
そういう論法があると思う。
これは同性愛を扱った作品だ。もし異性愛のカプだった場合、SMの可能性を最後に僅かだけ残しつつもSMからノーマルへと移行するのは、つまりストレート性の価値の再確認という意味が強いだろう。「やはりだれもが規範へと戻るのだ!それが本質的に正しいのだ!」という変態性の否定の説得力をつけることとなるかもしれない。
しかし本作は同性愛なのだ。さてどう読もう。

同性愛の中で更にもう一つの『変態』が二重に重なり、このようにノーマルへと半ば移行する。(つまり、同性愛を欲望しながらも、同時にノーマルの快楽をも欲望する。今回の場合、ノーマルセックスが隠された欲望として描写されるのだ。そして愛こそ全てだと言い放ちつつ、ノーマルも変態性も愉しんじゃう!)
この移行の様なのだけれど、私はこれを一見してBLのセオリーそのものではないかと思うのだ。
BLは異性愛中心主義的な価値感と規範性を内面化した描写をつけながら、脱文脈的に同性愛賛美をする。
しかしその中での同性愛への肯定の仕方は、実は同性愛そのものの肯定という文脈ではなく、あくまで二人の至高の愛の肯定という文脈で行われるのだ。(ふたりは忌まわしき『同性愛』だけど、二人の『愛』そのものはなによりも素晴らしい!)
そうしたとき、同性愛という変態は変態ではなく、ただ『愛』となる。変態でもなく、普通でもなく(!)。
それが読解したうえでの客観的事実だ。 
そして、同性愛と云う変態を一部的に否定しないうえで(BLセオリーとしていつも通り脱文脈的に同性愛賛美したままで)、SMという変態を至高の愛の名の下に退けるという『移行』は、どう読めるか。そう、それはつまり、「愛こそ全て」というBLでの肯定のセオリーと相似だと言えるんだ。
「正しい異性愛ではない同性愛。いや、しかし!愛の前では『異性愛』『同性愛』もない!!」そんな感じに、SMというカテゴリもまた、愛の前では意味のないモード、意味のない価値なのだ。

これはどう読むべきか。再度確認するが本作は同性愛の物語だ。異性愛の場合と、同性愛の場合での「『至高の愛』からのSMへの無効化」はそれぞれ効果が異なるだろうと思う。
まだ結論は出したくはないけれど、同性愛という変態を否定せずにSMというさらなる変態を愛の美名で無効化する、という移行はつまり・・・

変態でもなく普通でもなく『愛』こそが素晴らしいのだ!

という結論に他ならないのではないか。
だって、唯一的に正しいとされる異性愛、所謂「ストレート」には決してならないのだからね(これは同性愛の物語!)。そうした場合に、愛の美名の下で、SMや異性愛や同性愛すらを退ける様は、つまりは『愛』だけの肯定と言える。
これは結局BLらしさの踏襲ではないかなぁ。ほら、いつも通りの論法じゃん?愛の前では同性愛のモードも異性愛のモードも(そしてSMというモードも)すべてのカテゴリは無効化される。愛こそ全てなのだ。つまりそこには愛しかない。

そう読むと、BLは本当に変態の肯定はせず、愛だけを脱文脈的に肯定する文化なのだと思った。つまり、同性愛の肯定をせずに同性愛を賛美し欲望する、ということだろうか。
『普通』に絡まれることなく、しかし『変態』を肯定することもなく、愛だけを欲望する強かさ。(それにより、規範から外れた欲望さえも奔放に愉しめるのだ) これがBLらしさなのだろうな。
しかしこれは結局、BLが文化の中で評価しづらい、ということを再確認してしまうことだ。
ただただ愛マンセーしてるBL。それはつまり変態を肯定するわけでもなく否定するわけでもない。規範たる異性愛(普通)の排他性を認めるでもなく認めないでもなく。
愛だけを肯定することで「男同士の欲望」をも愉しむ力は凄いけれど、逆を言えば同性愛否定に加担をしても構わない態度でもあるのだ。ただ愛だけを読み解くという作業をするBLはときに、愛と云う語の中の『普通』という規範、規範の中のマイノリティ否定に容易に加担してしまうだろうし、しかし本作のようにアクロバティックに変態を“否定しない”パワーを生み出したりもする。
こうした体系をどう評価するか。そういう取り扱いの難しさが、BLらしさだとも言えるのだろうなぁ。

  • メモ。

 「どうかしました?」
 「お、お客さん・・・、SM・・・関係の人ですか・・・」
 「うん。僕はSだけど」
 がくん、と店員の顎が落ちる。
 [・・・]
 「これですけど・・・アメリカ直輸入の欧米人用なんで、日本人にはかなりおおきめだと・・・」
 「大丈夫、僕の彼氏は特大サイズだから」
 「ホッ、ホッ、ホモッ・・・・・・・・・・・・・・・ですかっ」
 僕はかるく睨んでやった。
 「さっきから君、失礼だよ」
 「す、すみま、すみませんっ」
 額に汗をかいて怯えるさまが、けっこう小動物みたいでかわいいじゃない。なーんて、ちらっと思ったら、それが相手に伝わったみたいだ。ズザザッと店の端っこまでおもいっきり引かれてしまった。
 「逃げなくてもいいよ。こんなところで取って喰いやしないから」
 わざと誘うような笑みを浮かべてみせたら、一転してそいつは顔を赤くした。

 [・・・]行き場のない愛情は心の中に溜まっていくだけだった。
 Sのゲイとして目覚めた僕の性向を、精神科の医者や心理学者ならいろいろと分析するだろう。でも僕自身は、いまの自分に理由づけなんて必要としていない。

うん、多分、今時ゲイでSMなことをもし病理として分析する医者や学者だったらもぐりだと思うよ。そういえばそろそろ1990年5月17日にWHOが同性愛を国際障害疾病分類(ICD10)から削除することを決議したことから始まった「国際反ホモフォビア・デー(International Day Against Homophobia, IDAHO)」なんだよな・・・。