あらら、どっちだかわかんない子。

この愛を喰らえ (幻冬舎ルチル文庫)

この愛を喰らえ (幻冬舎ルチル文庫)

あおりから、あらすじ。

渡木坂鋭はヤクザの家に生まれたが、父である組長の死とともに組を解散、小料理屋の主となって二年が経つ。鋭の店には元組員や隣接する緋賀組若頭・緋賀颯洵がやって来て賑やかだ。颯洵とは子供の頃からの知り合いだったが、偶然再会して以来、常連となったのだ。ある日、颯洵から押し倒され面食らう鋭。次第に颯洵の存在を意識し始めるが・・・・・・!?

読みは「ときさか えい」「ひが」「ひがそうじゅん」です。

今日からお前は俺のものだ

BLレビュー

なにがいいって、九號さんのイラストだよな。ほら、見てよこの受け。鼻っ柱強そうなアンちゃん・・・。うわー、押し倒しがいありそー。イラストで見た感じのキャラクタです。ツンですよ、奥さん。しかも、和服の料理人で下着はビキニなんです。見るからにエロイー(・∀・キャ
性格はね、人情厚き任侠な人・・・。解散した組を愛していて、小料理屋を愛していて、そして家族(元組員等)を愛していて。・・・そして、その元組員から愛されすぎちゃってて・・・v なんか愛に恵まれた子ですなー、この受け。結構素直で純なおひとなのです。それと対照的な、冷酷非情な攻めが、なぜかあまり仲がよくないはずの受けに対してどこかしら甘えてるような・・・、て感じの話ですた。
強持てっぽい頼りがいある兄貴風な受けなんですが、実は皆から愛でられるようなキュートな兄貴なのです。なんか、受けは攻めにだけでなく弟や元組員からの絶大なる濃厚な愛を受けすぎです。総受け?でも実は攻めが独占欲強いのです。そんな攻めに翻弄される話。

しかし、私はヤクザ方面には疎いからどうとも言えないのだが、そんなにヤクザって物騒なものなんかな。ずばり任侠!て感じの話で進むのです。
で、一部に殺人などの暴力的な内容にも触れてますだ。
殺人の何が悲惨って、その殺人による後の効果、というか。多分どの暴力にも言える事で、暴力自体と云うよりも、その暴力がもたらす結果があまりにも悲惨なものなんだよなぁ。攻めは殺人を犯しちゃってるけど(それほど重点的に描かれてませんが)、その背負うものってのは、男を上げる物ではないんだよナァ。
でも、そのどうしようもないものを易々と、そのままに「引き受ける」と言わずに、「そばに居てやるから泣きついて来い」と言って帰る場所を残そうとする受けは、確かに頼りがいのある人だと思った。


以下ネタバレ。

nodada's eye

ホモフォビアはトランスフォビアに連動していると思う。
素直に定義を信用するなら(してしまうなら)、ゲイは男であるはずの者たちなのに、度々「おかま」と呼ばれることがある。男ではないものとしてみなされるのだ。
社会の中では、男であるはずのゲイに対して、まるで男から女へ移行した者を見るかのように捉えたりする傾向があるということ。


たとえばMTF(Male To Female)ではこういうことが現実として言えると思う。
社会では本人の意思関係なく(尊重せず)、男のトランジション(移行)はそれ自体「女に成り下がる」ことだと判断される側面がある。(女のトランジションの場合、「失敗」と判断されるだろうか) 
そして社会において、男にとって「おかま」と言われることが最大のけなしであることからわかるように、男が男を降りるということは非情に嫌悪・恐怖される。そう、それがトランスフォビアだと思う。
それはミソジニーも連動しているということだが、とにかくこのようにホモフォビアホモフォビア単体で成立してるわけではない。ゲイもトランスフォビアの影響を受けるのだ。


 ちなみに、トランスフォビアとはトランスジェンダー(広義)に対する恐怖・嫌悪だが。(・・・私の一応の解釈で申し訳ないが、)トランスジェンダーとは、「生まれてから付与された性別とは異なる性を生きる者」と云う具合にここでは理解していただきたい。(詳しくは自分で調べてねv)

性役割において男性は女性を愛する役割を強く担わされているが(強制異性愛)、それをしない男たちは、すなわち「おかま」と侮辱されることもあるだろう。(おかまで何が悪い
そして、BLの中の攻め・受けもそれに免れる理由はないように思われる。(少なくとも、本作は現実社会を舞台にしているのだから)

で、BLでも、攻めと受けの愛(同性愛)を否定的に見る場合もある。が、それよりも今回強調したいのは、BLの中では「男同士の欲望」が至高の欲望であるように演出されなければならない事情があると言うこと。
なぜって、男同士のセックスや愛情を、社会の意識そのままに侮蔑していては、読み手が安心して楽しめるわけがないからだ。たとえ読み手がゲイではなく女性であってもね。
だからこそ、実は「禁断の愛」的描写とは別に、「男同士の欲望」賛美の傾向もあるだろうと思う。そのように描写してこそ、高揚感のある素敵な欲望の描写を読み手に提供できるんだ。

1受けが攻めに押し倒された後で、ひとり思い悩むシーン。

 ・・・・・・やはり、ご無沙汰なのがいけないのか?いやしかし、女とした時でもこんなふうには・・・・・・。男相手で勝手が違って、余計に感じてしまった、とか。
 「いやいやいや。気が動転しただけだ」
 断じて男が好きなわけじゃない。男に欲情したことなど、今まで一度もないのだから。久しぶりに触れられて、たまたまその手が上手かったというだけのこと。

その後の受けと攻めのやりとり。

2受けに、するなら女を当たれ、と言われての反応。

 「女なんて物足りない。男なんて論外だ。俺はお前がいい」
 「・・・・・・俺は男だ」
 「おまえは特別だ」
 「わ、わけわかんねえ」

3更に後の、攻めが受けに問われるシーン。

 「でも、おまえだってホモとか言われんのは嫌だろうよ」
 それが事実かどうかは置いておいても。
 敵の多い人間だからこそ、後ろ指差されるようなことは少ないほうがいいに決まっている。
 「別に。言いたい奴には言わせておけばいい。俺を下に見る理由が欲しい奴はごまんといる。しかし、現実に俺の上にいる奴ならそんなもんは必要ない。どうってことない奴になにを言われても、痛くもかゆくもない。お前が手に入るなら、そんなのは些末なことだ」

(>事実がどうかは置いておいても 「ホモ」のアイデンティティを持ってる人だって、本作の受け攻め同等くらいに性的指向があやふやで揺れている人だっているはずだ。)


ここで見たいのは、攻めの動向。
〜「ゲイ」は異常な性欲の持ち主で、その性癖は理解しがたい。〜
社会の中でそのようなイメージがあるのは否めない。で、それと同調する受けは「いや、男になど欲情していない、ホモなんかじゃない!」と否定したがる。そこにはホモフォビアがあるだろう。しかし、そのような否定的な見方をしたままでは、読者は受けと攻めの愛を気兼ねなく楽しめない場合もある。
だから、(3の引用からわかるように)攻めにそのナイーブな点をフォローする描写を入れる必要性がでてくる。そうすることで、イメージが悪かった男同士の欲望がレッテルからブランドモノに変わるのね。そして読者は安心して男同士の欲望を感受できるようになる。(無論、異性愛同性愛、ノンケゲイ、どれも同じ欲望なのだが。)

で、そのフォローの仕方なのだが・・・。

攻めは「ホモバッシングは恐くないのか」と問われてチキンぶってはいけないので、「べつに何を言われてもかまわない」というスタンスだ。(しかし自分より上の人に言われたらどうなのかは不明)
しかし、私が気になったのは、3のホモフォビックな反応に対しては「別に構わない」なのに、2の「男なんて論外だ」ではホモフォビアを表面化して見せてるのは何故か?という点。
たとえば男女の関係で、「お前は特別だ」と言うのに「女なんて論外だ」「私も女よ」「おまえは特別だ」「わけわからない」などというやり取りは多分しないと思うのだが。ここでは「男に欲情する」ことに対して、受け同様に攻めはホモフォビックな反応をしてしまっている。ただし、「ホモと呼ばれても痛くもかゆくもない」と表明することで、攻めの男としての威厳は保たれ、魅力的な受けと攻めの愛は確保される。つまりここで、半ばではあるが男同士の欲望はブランド化できたのだ。

しかし、一方ではホモフォビアを退け(3)、一方ではホモフォビアを表面化する(2)のは矛盾ではないか。
ここが大変不可解だったのだが、これに違うフォビアを入れて解釈するとスッキリする。

3の場合は、オーソドックスにホモフォビアについてのシーンであると読めるが、2の場合それとは違って「男が男に欲情する」ことで新たなフォビアが要請されてると感じた。
それがトランスフォビアだ。
ホモフォビアの中にもトランスジェンダーへの嫌悪・恐怖が混ざってるのだ。そう、ホモフォビアにはトランスフォビアが内包されてあったんだと私は思う。つまり「男に欲情するのは(男ではなく)おかまだ!」とね。(勿論これはトランスジェンダーへの無理解なのだが)

で、攻めは3では威勢のいいことを言ったのに、なぜ2で社会のまなざしに迎合したかといえば、それは攻め自身がトランスフォビアを抱えていたからではないか。
彼は、受けである男を欲望することで「おかま」のレッテルを貼られる、ということへの抵抗があったのではないか。


(男同士の欲望を至高のものとする為に)攻めが実際に男である受けをチキンぶらずに愛すには、オーソドックスなホモフォビアを退く必要がある。
しかし、それでも彼は自身のトランスフォビックな意識は退けることが出来なかったのではないだろうか。
それは彼が男を自認しており、男らしい男としての権力・威厳を手放すことを恐れたからなのではないか。おかまと呼ばれることで男から男でないものに成り下がるのを恐れたのではないか。そのように思った。
けれどそれでよいのか。男同士の欲望を魅力的に感じさせ受けといちゃこくためには、男同士の欲望を再評価しなくてはならない。けれど、その場合において「男である受け」を愛してしまっては、「おかま」になってしまう。だから攻めにとって受けは“男”ではなく“特別”でなくてはならなかったのではないか。
そう、“特別”に位置づけることで擬似的に男同士の記号が向き合う事を避けたのではないか。(内面としての「おとこ」同士の欲望だけの肯定をすることで、ゲイ的欲望の問題点を避けた。
それゆえにホモフォビアを一部的に退けることは出来ても、トランスフォビアを退けることは出来なかったのではないか。
ここにBLと社会のフォビアとの不条理なジレンマがうかがえたように思う。しかし重要なのは、BLの中の事情(ブランド化)のように男同士の欲望を再評価させるときにさえ、他のフォビアを表面化させてしまう恐れがある、と云うことの発見だ。
つまり、これは同性愛のジレンマそのものなのだ。
男でありながら男を愛することは、それ自体「矛盾」のような問題点を抱えうる。それは私たちの現実社会においても共通した問題ではないだろうか?現実にも起こりうることだろうと思う。


けれど、ちょっとそのように解釈して見てから最後まで読んだのだけど。

 「俺だって起こしたいのは山々だったんだが・・・・・・」
 颯洵が含みを持たせて言葉を切った。
 「山々、だったが、なんだよ」
 「胸に顔埋めてすり寄られちゃ、起こせないだろう、男としては」
 「胸に埋まって―埋めるような胸がどこにある!」

このほかにも、自分を女の記号に寄り添うような描写はいくらかあったんだよね。(まるで自分の反応は乙女のようだ、とか)そもそもBL的エロティシズムとは、異性愛的表現のオンパレードなのだし、ある意味相似だ。
そして全体的な印象としては、攻めは「男に欲情しておかまと呼ばれる」ことの恐怖から受けを「特別」と呼んだというよりは、本当に受けを唯一的な対象としてまなざしていたのではないか?とも読めるような気が・・・。

そこでの解釈では、2のホモフォビックな反応(「男は論外」)は、むしろマンヘイティング的要素が強いのではないか?とも読める。
つまり、「男は汚く醜い」というまなざしがそこにあったのではないか。

しかし結局それもよくわからない。だって、本作ではやたらに受けが周囲の男たちに寵愛されていて、男性のエロティシズムを大変に評価してるシーンも見受けられるもの。


ああ、この節操のなさはどうなんだろう。結局2のフォビアは一体なんだったの?それとも攻めは本当に個人的な評価をしており、ホモフォビアもトランスフォビアもなかったというの?じゃあ攻めは世界を探してもいないようなホモフォビアから自由な仙人みたいな人物なの??そんなまさかぁあ!

うん、あれだよ、やっぱり。BLの中でのホモフォビアなんてこのどっちかわからん具合からわかるように、非常に形式的なものなんだよ。
あっちで社会に迎合しながら、そっちではBL的に同性愛を再評価して見せたり賛美したり・・・。あっちで「キモイ」と言いながら、その口で「ヨイ」と口走ってみせる。読んでるこっちはもうイミワカラン。

うぅん、なんだかとっても興味深い動向が見られますわね、BL。本当読解が難しい。私の能力不足かしら。もうちょっと首洗って出直します。
しかし、こういうBL内の混乱を見ると、本当に社会の(様々なフォビアと連動する)ホモフォビアって・・・なんと云うか、かく乱のしようがありありな気がいたしますのことよ?