肥満とコヨーテ。容姿がテーマのBL。

しかし、なんでイラストではああも太ってるときの受けの顔を描かないようにしてあったのだろう。

あらすじ。

仕事で小さな無人島を訪れた裕一は、ちょっとした手違いから、その島に取り残されてしまった! 迎えが来るまでここで生きていかなければならないのに、たった一人の同行者・サイテー上司の今蔵は、ふだん以上に役立たずでムカつく存在。二人きりの生活の中、鉄壁の外面のよさを誇る裕一も、次第にガマンの限界に達してきて…!
 ボーイズラブ界屈指の話題作、単行本未収録だったショートも加わって、新装版で復活!

新装版の追加ショートは、4pでした。
帯。

恋の奇跡って、こういうこと…!?
ボーイズラブ界屈指の話題作、新装版で復活!

BLレビュー。

おもろかったー。コメディーなのかな、一応。遭難の理由が不運過ぎるものなので、そこは確かに笑えたw
木原さんはそれぞれテーマを立てて話を掘り下げるタイプなのかな。そのテーマでの社会的な、しかし文学的な切り取り方が面白いなぁと思う作家さんですが、今回は重たくならない感じのテイスト。(でも最初の部分の描写は、読み手の私がもしか太っていたらちょっと泣いたかもしれない…。)
今回のテーマは、容姿でした。というか、容姿と男性性がテーマ。
受けは、性格極悪でマザコンで太っていて背が低くて短小で包茎なのがネックの、世間一般の褒め称えられる男性性の逆を行くキャラです。攻めは、学生時代性欲を抑圧されてきた分、現在は(家族にカミングアウト済みで超俺様で嫌味王で家の長的な)セックスライフを充実させてきたゲイ。

攻めが、受けの太った肉体の魅力に開眼して、だんだんと取り付かれていく様がとても美味しかったです。
しかし、最後には受けは残念ながら痩せて、攻めにとって元々の好みである美少年タイプになるんだけど、それでも攻めの受けへの愛し方が変わらなかったのが嬉しかったー。(しかし裕一。受けに「彼は元ヘテロ」という誤解をしばらく抱かせたまま付き合ってたのはどうかと思う。)
あと、Hも多い割りに読みやすくて、萌え萌えしたー。


いや、でも、別に痩せててもいいよね。うん、そうだよ。愛は痩せてるかどうかなんてカンケーないよ!太ってもない人を愛せるなんて、究極のアイだよ!体重を越えたアイね!!素晴らしいわ!(←笑うとこ)

以下ネタバレ。

nodada's eye

攻めは最初デブ専の好みに理解を示せなかったのね。
寝ていた受けの顎を摘んで不快がられる所のシーン。

 方目を細めた不愉快な表情で顔を横に向ける。裕一は摘んだ指先をそっと擦り合わせた。すごく、すごく柔らかくて、気持ちよかった。これが顎先だけのことか、それとも体全体がこんなに気持ちのいい肌に包まれているのか…想像だけで喉許がゴクリと鳴る。

皮をむいてあげる(?)と騙って受けのペニスに奉仕するシーン。

三段腹と包茎短小ペニスなのに、なぜかとても神秘的に映る。ふくよかな下半身を見つめながら、高校生の頃に美術の教科書で見た、裸婦の絵を思い出した。あの時はどうしてこんな太めの女を好き好んで描いたのだろうと思っていたが、今なら脂肪のついた肌の持つ丸みや柔らかさを正当に評価できる。
 […]
 『こいつはデブで、短小で、包茎で…性格悪くてとにかく最低の野郎なんだよっ』
 萎えてしまいそうな言葉をいくら羅列しても、効果はない。ため息をついて暗闇の中、眠ってしまったらしい男の顔を覗き込む。スウスウと軽い寝息を立てる唇に、たまらなくキスしたいと思ってしまう自分はもうごまかしようがなく『重症』だった。

私はノンケが同性愛に開眼していく様が好きなのだけど、これも同じことが言えると思う。
世間で規範的な(というか模範的なタイプの)ヘテロという『ストレート』である男が、同性愛に目覚めていくことで、「あれ?男だって結構エロいんじゃないか?」とストレート性から逸脱してしまい、本来否定しなければいけないはずの男同士の欲望に開眼していく。
デブというものを好むのも、ある種そういうストレート性から逸脱する向きがあると私は思うけど。その魅力を発見して、今までの自分(の中にある、一つのストレートな規範的まなざし)を逸脱してしまう。これはBLではよくある表現のはず。


救出され帰ってきた二人は、一時、受けの母親により引き離されるのだけど、結局二人はラブラブカップルになる。受けは、攻めとの恋愛を反対する母親にこのような感情を抱く。

 今蔵の心のような物悲しい秋が終わる頃、母親は照れくさそうに『ママ、再婚しようと思っているの』と息子に打ち明けた。[…]父親が死んでから女手一つで育ててくれた母親。新たな人生の始まりを喜んであげないといけないと思いつつ、気持ちは複雑だった。
 『僕の恋は駄目だって言ったのに、ママはいいの? その男と裕ちゃんのどこが違うの?』
問いただしたくてたまらなかった。

そうだよねー。「〜〜はダメと言うけれど、両者はどう違ったの?」という問い返しは、繰り返し繰り返ししていかなければならないよなぁと思う。

たとえば、いつかゲイが世間で『普通』になり、ストレートになったとしたら?
その時、「でも、小児性愛のゲイは変態だから、ゲイじゃない(ストレートじゃない)。だからダメ。」と言ったのでは、それこそ同じことの繰り返しなんだよね。両者に明確な違いはない。と言うよりも、その境界線はいつも恣意的で、そこには権力が介入している。
だから、変態が変態である時、変態を「変態ですが、何か?」「変態のどこが悪いの?」と肯定(名称を逆盗用)していくのは大事だ。

けれど、それとは別に、ストレートなものへの憧憬というのは、否定できないものだよね。

 ほどなく今蔵は包茎の手術を受けた。自分の中のコンプレックスと、一つでもいいから決別したかった。大きさは変わらない、だけど始めて目にする小さくてピンク色の先端は、わずかながらも自己主張の表れだった。

「性器から見る男の子の性研究 ―ペニスをめぐる研究ノート」という論文があるらしのだけど、そこで小宮明彦さんという人が、「ペニスは剥けててなんぼ。剥けてないのは最低」といった類の包茎非難を「露茎主義」と呼んで批判してるらしいのね。(伝聞)

でも、そういうものがコンプレックスである時、それを「治療」して自己肯定を遂げることを、誰も否定は出来ないと思う。(もちろん、そういう行為をしないと自己否定に繋がる社会的まなざしを批判しなきゃだよなぁ、とは思うけど。)


表題作の最後に、受けは、今までろくに文句も言えなかった絶対的な主であるママに電話口で告げる。

 「マッ…ママはそんな風に言うけど、裕ちゃんは悪い人じゃないよ」
 今蔵の、受話器を持つ手がプルプル震えている。
 「それに僕、裕ちゃんのこと、…好きだから…だから…」
 震える右手に手を添えた。顔を上げた今蔵に『俺が話をしようか』とそっと耳打ちする。自分が出れば火に油を注ぐ結果になりかねなかったが、必死に抵抗する今蔵を見ていられなかった。 
 「…いい。ぼっ、僕が話す」
 […]
 「けど、叱られても捨てられても、僕は裕ちゃんと一緒にいたい」

受けは、そしてママに「ごめんなさい」と言う。


矜持を持つこと、時にそれは、否定されてきた何かを自らが肯定、あるいは否定することだと思う。
受けはママにある種の『お別れ』を告げることで、何を得て、何を失ったのだろう。
とにもかくにも、受けが手に入れたかった攻めからの愛を、しっかりと受け取れてよかったな、と思う。