SMに目覚める鬼畜攻め。

と言っても、SMの定義を詳しく知らないのですが・・・。

今回のトラバ先。
http://d.hatena.ne.jp/PandJ/20070627/1182917511
http://d.hatena.ne.jp/yoyoco/20070627
http://blog.livedoor.jp/rinu666/archives/64656988.html

あかないとびら (バンブー・コミックス 麗人セレクション)

あかないとびら (バンブー・コミックス 麗人セレクション)

妄想力がある人にはオススメ。

あらすじ。

大学時代、ゲイだと噂される後輩がいた。
そいつが俺のことを好きらしいと聞き、俺はそいつと距離をとった。男のくせに俺を好きになるマヌケ野朗を俺が好きになるはずがない。
だから・・・、もう二度と会うことはないと思ってた――!?
鬼畜でオレ様な先輩とエッチな妄想で頭がパンパンの気弱な後輩の恋を描いた表題シリーズ他、描き下ろし番外編も収録した待望の麗人セカンドコミックス!!

帯。

切ないのは俺だけか?

自分の気持ちに気付くか、気付かないか、それが恋の分岐点。
描き下ろし番外編を収録した最新コミックス!!

この帯によれば、気付けば恋、気付かなければ恋ではない、ということか。

BLレビュー。

私以前鈴木ツタさんを中途半端だと言ったことがありますが、これを再読してみると、(あらすじで紹介されてる表題作ではなく)「みにくいアヒルの王子様」「王子様の恋人は」の立花×田山のお話が思ってた以上にすごくヨカタです。改めて発見するものもあるので、BLも読み返してみるものですね。
そうそう、前回のエントリで鈴木ツタさんの絵はキツネ×タヌキだと言いましたが、このコミックスが正にそれでした(ただし、中には逆バージョンもありますよ)。よく攻めの冷淡さと受けの抜けた感じの可愛さが表されていて、見た目としてすごく相性がよいと思います。
ところで、今回の場合、少し特徴的な視点があるように感じました。たとえば、表題作で出てくる間男・森さんの性的な視線、あるいは二人に対する『突っ込み』が、複雑に、アクロバティックに読者の視点とかぶっているような気がしました。そうなることで、読者が行う『キャラクタへの(いかに萌えられる存在であるかという)解釈』の幅を広めている。そんな印象がありました。あと、「王子様」シリーズの攻めが、「王子様」という自分への形容に対して馬鹿にするように冷静な突っ込みを入れてるのも面白かったです。(そういや、独特のローなテンションがありますよねw)

 ・・・ちなみに、表題作の攻めは「オレ様攻め」の要素が高く、「王子様」の攻めは「鬼畜攻め」の要素が高かったように、私には感じられました。表題作の受けは地味なのにフェロモンたらしてる健気受け。「王子様」の受けも地味で「オタク」とからかわれていて、根暗な印象を持つけど実は可愛い一面を隠し持ってるツンデレ受け(赤面症)。


うーん、読み返してみれば・・・、やっぱり魅力的は魅力的なんですよね、キャラクタ性が。なんだけど、非常にひっかかる点があるのも事実。それは、二人の恋に対するエンドマークの付け方と云うものでしょうか。おそらく、鈴木ツタさんのエンドマーク(いや、ストーリ展開全般かな。)は、私達読者がいかに萌えを見出すかという 自主的な“努力” によって、その評価が分かれるものなのだろうと推測します。つまり、読み手の妄想力に頼ったテキストの提示をしてるのです。と思うのですが、いかがでしょうか。(正に帯で言うところの「恋の分岐点」という解釈が、それに関わってくるのです)
ということは、このコミックスを最初読んだ際に私がつまらなさを感じたのは、もしかしたら自分に萌えを見出す努力 妄想力が足りてなかったという背景もあるのかもしれません。私やおい属性が薄いせいか、そういう妄想のトレーニングをあまりこなしてないんですよね・・・。

ただそれ以外にも、同性愛、特にゲイの表象に暴力性があったという事実も、再読することで新たに発見いたしました。

以下ネタバレ。

「あかないとびら」「合わない鍵」

表題作「あかないとびら」は割と攻め視点です(「合わない鍵」は受け視点)。大学時代の後輩がゲイであるとうわさされて、そのことで攻めは彼と距離をとっていたのですが、その後輩(受け)と縁あって再会するのです。そうして自宅で一緒にプログラムの仕事をするようになってみたら・・・、と云う話。ちなみに、攻めの先輩にあたる森さんも(受けより先に)そこで同居しているんです。
 で、攻めが受けをどう思ってるのか、私にはいささか不信に思えたんですね。それがかつてはネックだったのかと・・・。
攻めは、受けに対して抱いてる自分の感情に動揺しています。(しかも一見クールに!)その点を引用。

「・・・あのな 頭ン中ではこんなのデタラメだってわかってる でもな 身体の方が勝手に ・・・なんだこりゃ」
「・・・え うすいさ・・・?」
「匂いだかフェロモンだか、知らねぇけどな そこかしこで振りまいてるんじゃねぇよ」

その他、受けに対して「嫌いだ」とか「『好き』とかは困るしそういうのはナシで」とか攻めは言うのです。
このように、攻めは一向に受けへの好意を認めない。けれど、同居人である第三者の森さんによれば、「自覚がないだけ」という解釈になるのです。
以下、攻めと森さんの会話。

「俺は升一人いればこと足りるんでね」
「・・・うわ ラブラブすぎてうぜぇ」
「ハァ?」
「自覚のない人が一番困るよね〜〜〜 ねぇ升くん!」
「また人をホモ扱いして・・・」

(ちなみに「升」は受けの事ね)
攻め自身としては仕事の同僚として評価してるつもりでも、森さんからすれば甘々な態度に見えるということです。全体的に、読み手が「そこにはただならぬ感情が潜んでる」と妄想しなければ攻めと受けの絆は読み解けないようになってる。

「みにくいアヒルと王子様」

これが面白かった。(でも何気女性に辛らつなキャラクタだねー)
高校時代に同級だった攻め(立花)と受け(田山)が大学で再会し、同校のよしみから親しくなり、いつしか受けが恋心を芽生えさせる話。

攻め様がね、ぱっと見気さくな性格でモテるタイプなんですけど、素敵にサディストなの。

「田山 かわいいから 抱いてあげるね」

くわーーーっ!
これね、そこらへんのしょうもなーい男が言ったら即ドン引きなんだけど、この恩着せがましい態度が妙に合ってます。(この他にもすっごいセリフが出てきますよ!)
この話は、わりと受けの情動が読み取りやすい話なので、可愛らしくもだえる受けの魅力を存分に味わえました。

「王子様の恋人は」

で、ここからが攻め・立花の内面を細やかに掘り下げる話なのです。
私はですね、この攻めは最後らへんまではただの鬼畜攻めだったと思うのですよ。立花は自分に好意を寄せる相手を信用しません。要するに「自分に対して独りよがりな理想を抱いてくれるな」と思ってるタイプの人。そして、いじめて相手の表情を愉しむために、執拗なまでに(そして酷薄に)受けを色々と「試す」のです。立花は、自分が田山に対して抱いてる気持ちを、今までの信用ならない相手と同じに捉えているのです。が、同時に田山に対して不可解な己の執着心を自覚するのです!

いじめてみても今までの人のようには「リタイヤ」しない受け。その先を知らない攻め。

結局ね、立花は(サディスティックな部分含めた)“自分らしさ”を受け入れてくれるような、相性のよいパートナーを見つけられない人だったのだと思う。けれど、そこで田山は正面切って“自分らしく”立花と接することにより、しっかりと攻めとの間にサディストとマゾヒストの信頼関係を契約(構築)してゆくのです・・・!これが彼らの“受けと攻めの絆”なのだと思います。 彼らは、相手と真正面から向き合う事で、(一見そうは見えないかもだけど)信頼の土台があるSM関係を築けたのです。そうやってお互いの好意がパートナーシップに繋がったという話・・・。一方的な信頼にも見えるけど、Mを『支配』することで「M(田山)のもの」になるサディスト(とマゾヒストの)関係は、実は対等なものだと私は思います。
ここまで行き着かなければ、この攻めは単に鬼畜攻めの範疇を越えなかったと思います。けれど、SM的信頼のあるパートナーを得る事で、攻めは鬼畜+サディスト攻めに移行したのです!!(へーんしん!)
非常に素晴らしかったです。あっぱれ、サディスト攻め。

「冷たいさびしがり」

続きがないのが痛いです、先生!読ませて!
一人寝がいやな美人さんと年下の可愛い子。ワンコが振り回され気味v

nodada's eye.

表題作が不味い。
受け(升岡)はね、ヘテロに対して卑屈なゲイなんです。ただ、そういう卑屈なゲイもいるだろうし、それを描くのはいいんだけど、ちょいと異性愛男性至上な価値感に傾いてる印象がぬぐえない・・・。まあその分すごく生々しいんですよ、受けが。「あかないとびら」では単におどおどした健気受けなんですが、「合わない鍵」では、

飲まずにいられるかっちゅう話ですよ

を初め、なかなか乙な発言が目立っていて、私から見て「あっちゃ〜、やっちまってるよおい」てなモンです。(えらいテンション高ぇな、おい)
他にも森に対して「先輩がいなかったら早速慰めてもらうところだ」とか色々言っててキャラクタが生々しくて面白いんだけど、その分「フェロモンが出てる」「セクハラされる男」「ホモだからアナルをいじりたがる」等の攻めたちの抱く偏見と絡まることで、ゲイ=変態気質(等々)というありきたりなゲイへの語りに手を貸す形になってるように思われます。そして最後の「冷たいさびしがり」の設定と合わせると、どうも微妙なゲイ描写をしてる感がぬぐえない。この表題作のゲイの描き方に次いで、あの設定だと、「ゲイはとんでもなく性的に淫らで浮世離れしてる」というイメージを読者に与えかねないかも?(まあ、実はちょっと難しい問題なのですけど)


私は、ゲイ自身の主体的な運動の結果(ここ大事)、ゲイが「変態」を名乗るようになったとしても、ならなかったとしてもそれは構わないんですよ。それは彼ら個人々々の自由だ。けれどそれとは別に、偏見を煽る形でステレオタイプを提示して(乏しいイメージしか提示しないで)ゲイを描いた上に、攻めの同性愛嫌悪的な態度を読者に堂々と見せ付けるような表現は、ちょっとメディアとして不味いのではないかと思います。
結局最後まで攻めは受けへの気持ちを好意だとは認めない。それは私の主観からいわせれば、たん的に同性愛嫌悪からのリアクションでしかないように見ました。

つまり、私はこの攻めを見て、「わー、受けを好きなのにホモフォビア(同性愛嫌悪)からそれを認められずに、露骨に『自分はホモなんかじゃない!』て言ってるんだろうなー」と一応解釈しましたが、それを少し、へたれな「可愛い態度だ」とも思いました・・・。けれど、ゲイへのステレオなイメージを持つことで受けのことを異端視し、更に自分はホモじゃないと言い張るなんて行為を、「可愛い態度」だなんて評するわけにはいかないように思います・・・。
そういうものを描くなら描くでいいんですけどね? けれど、その場合は“自分自身が持つ同性愛嫌悪に悩まされる攻め”の姿(等々)をも描かない限りは、その表現には(たとえ「萌え」はあったとしても)非抑圧的なゲイ描写の要素はないものだと思います。

ふぅ、今回も長くなったぞ・・・。読んでくださってありがとうございます。