人をセクシュアルアイデンティティで分け隔てる試み。

ごめんなさい、予定とは違うものをレビュー。次こそは巧みな狙撃手をレビューします。(公約)

Four seasons (爆男コミックス)

Four seasons (爆男コミックス)

あらすじ。

幸せな新婚生活を送るはずだった一組のカップル。

新郎の賢治は結婚直後の“ある事”をきっかけに、ゲイである本当の自分に目覚めてしまった。

外資系企業で働くキャリアウーマンの新婦・裕実は、何も知らずに純白のドレスに身を包む。

はたしてその結婚の行方は・・・?
お互いの、本当の居場所探しの物語が始まる。

爆男COMICSは果たしてBLに分類できるんだろうか?それともやっぱりゲイコミかしら?こちらでレビューしようかどうか迷ったけど、あっちよりもこっちのブログの読者様の方が、ゲイコミに関心あるかも?と思ってこちらでレビュー。
ちなみにこれは城平海の小説が原作みたい。どうも「爆男」は小説が原作の仕組みになってるみたい。徳間書店の『CHARA』と近いかな。

作風もやっぱりBLとは異なりますね。なんだろう、けれど“それ”を「BLはファンタジーでゲイ向けはリアル」という風に分けたくはないんですね。たぶん、現実(と社会・欲望?)へのデフォルメの仕方が異なるんだと思う。いや、もっと差異があるな。きっと、私のこの引っかかりが「ゲイ向け」か「腐女子向け」かの違いなんだ。このコミックスではゲイの欲望とヘテロ女の欲望が対等に描かれてある。そうすることで、ゲイライフと社会との間にある摩擦(?)から生まれた欲望を、救い上げているように読める・・・かも。「結婚」という要素がストーリーの核心に近いことからも分かるように、ゲイが抱え込まされている社会的問題に目を向けた作品だと思う。

要するにどの欲望を切り取るか、という話だけど、このコミックスは明らかに「欲望」に対する視点がBLとは異なると思う。BLはある意味男性や女性に対して距離があるんだと私は感じてるんだけど。読者とテキスト(そこに隠れた作者?)の間にある相互的な営みが「補完的」であるか「共鳴的」であるかの違いかな。(・・・この分け方も違うかも(;w;A
とにかく、BLというのは、読者の「読み」「解釈」がテキストに直接立ち込まれることで完成する相互補完的な作品群なのだと私は思っている。でも、このコミックスはそうじゃない。作者が積極的に読者に向けてメッセージを投げかけているようだ。


で、とにかく作画がステキなの!私好みだった!まあちょっと作画担当者MELUさんのサイトをごらんになってくださいよ!↓
http://gbl.sakura.ne.jp/
多くは語らない。見たらわかる。


あとがきから引用。(これもネタバレかなぁ)

自分の中のゲイに気づき悩み苦しむ賢治 
[・・・]
結婚が一つのポイントになって進むストーリー

こういう要素があるのですが、同じ爆男COMICSでも「閃光―フラッシュ―」とは違ってうんざりな終わり方はされてないし、一応それぞれの人が新たな出発に向けて歩みだす、という形になってるので、ハッピーエンド志向の人にもオススメ。あと、「賢治(主人公の一人)は最後こいつとくっ付くのか!!」ということで、ある程度萌えましたv

以下ネタバレ。

nodada's eye.

・・・しかし、私これは好みじゃなかったなぁ。きっとこれってアイデンティティ政治志向のゲイには都合のいいオチになってるんだろうけど、セクシュアルアイデンティティーを持つことが不可能な私にはこの表現はちょっと・・・。
最初、

本当の自分?
本当の居場所?
本当の幸せ?

そんなもの、追い求めるから辛くなる

例えば、季節が移り変わるように 私たちは日々、新しい自分に生まれ変わる
そんな中でどうやって自分の中の“本当”を 見つけることが出来るというのだろうか

というプロローグで始まるものだから、私はてっきり「うを〜、よっしゃ!アイデンティティの不確実性とアイデンティファケーションの不可能性を描いたポストアイデンティティな視野のあるセクシュアリティ描写がなされてあるのね?!」と思って期待してみれば、なんのことはない、たとえ本人に自覚が薄いとしても、ゲイはゲイとしてのアイデンティティーを持たないと不幸になるからちゃんと「本当の」自分を偽らず、“ゲイとして”生きましょうね。ゲイは女と結婚しちゃダメダメだよね。ゲイはゲイ同士で、ヘテロもちゃんとヘテロ同士で仲良くやりましょうね(はぁと)。それが本当のあるべき姿だ!という、お定まりなオチで萎えたわぁ・・・。

随所によい言葉もあるのよ。でも引っかかるのよ。
たとえば賢治が恋人の裕実に「ゲイなの?」と問われて「いや違う俺は『普通』の男だ」と言い張るシーンとか。

「僕は普通の男だ」
普通・・・か
じゃあ雄太君(賢治の浮気相手【by引用者注】)は異常なの?
尊敬してるダニエルも異常なの?

とか。
でも、「同性愛は異常なの?」と疑問に思った裕実は、こうも言うのよ。

裕実「あの時言ったわよね 自分はゲイじゃないって・・・ あれは結局嘘だったのね」
賢治「・・・違う 違うんだ裕実・・・ あの時は・・・そう思ってたんだ」
裕実「あの時はって・・・ じゃあ今はどうなの?」
賢治「・・・・・・・・・」
裕実「ねぇ 答えてっ! はっきりさせてよ」
賢治「僕は・・・ゲイだ」
裕実「・・・騙してたのね」
賢治「違う!裕実と付き合ってた頃は本当にゲイじゃなかったんだ」
裕実「やめて!!」
[・・・]
賢治「離婚するっていうのか」
裕実「当たり前じゃない ゲイの男と普通の女が夫婦やってたらおかしいでしょ?」

自分の事を「普通」だと仰られるのね。
(で、この辺りについての問題提起は後述。)

二つ目の引用。
裕実の上司、ダニエルが賢治の件で彼女の相談に乗る。そこでのダニエルの発言。

「僕らは子供の時から女の子と付き合うべきだと教え込まれてきたからね」

は正にその通り!この言葉自体は秀逸!(だけど「暗示」て言葉も正直どうなのよ?どうせなら、せめて「刷り込み」って言ってよ!)
でも、その「暗示」から醒めるべきなのはゲイだけじゃなくって、社会に生きる<わたし>たち全員のはず。だって、「異性を愛しなさい」という規範は、ゲイだけでなく(異性愛者も当然含む)社会構成員全てに課せられた規範だもの。
本作品は「人は異性を愛さなければならない!」という『強制異性愛主義』が同性愛抑圧に対してだけの問題じゃないことを忘却している。それを言うなら、たとえば(性欲や恋愛感情が薄かったりなかったりする)アセクシュアルだって異性愛だろうと同性愛だろうとなんだろうと、「人を性的に愛さなければならない」という脅迫的なメッセージを日々浴びせられてる。それだって強制異性愛主義による抑圧の一つだ。

私は、異性愛は絶対価値ではなくって、世の中に数あるバラエティの一部分なのだと思う。
そして、「男を欲望する/した男は即刻異性愛を捨ててゲイとして生きるべき!」ではなくって、単純に「異性愛だろうと同性愛だろうと強制するのはいけないよね。誰を何を欲望するのもしないのも、強制することではないよね。」と考えている。



ていうかむかつくんだけど。この作品は世の中にはゲイとヘテロ女男しかいないかのような論理で彩られてあるのね。「ゲイはゲイとして生きるべきだし、ヘテロもそう生きるべき。ゲイはゲイ同士で仲良く、ヘテロヘテロ同士で仲良く、それぞれ分離して生きるのが本来だし、そうやって本当の自分(←て一体何なのよ!)を見つけなきゃ幸せにはなれないよ!」ていうのは、私みたいにゲイにもヘテロにもなれない(ついでにバイにもなれない)存在にとって、なんだか置き去りにされた感じがして居心地悪い。
・・・ああ、ここでバイセクシュアルを出してくれたら面白かったのに!(そうすればこの作品の論理はすぐさま破綻する)

この作品の論理は無批判的に「ゲイはゲイとして生きる事」を奨励しておいて、セクシュアリティの曖昧な人や同性愛異性愛以外のセクシュアリティの人の存在には一切無関心に見えます。おいおい、それってゲイにとってはいいかもしれないけど、その他のあらゆる性の人間には抑圧的な論理だよ。

この作品のメッセージとして、異性愛に抑圧されたゲイはゲイアイデンティティーの確立を目指せ!というのがあると私は感じた。それは、異性愛による抑圧は悪くって、同性愛による抑圧は良い、って論理になるんだと思うけれど、それはおかしいだろ。
同性愛者は異性愛に馴染めなかったから社会から抑圧されてきたのに、その同性愛者が『同性愛に馴染めない人』にすら強制的に同性愛アイデンティティーを持つべきだと迫るのは、結局異性愛社会が同性愛者にやってきた抑圧と同じことじゃないか。

そして、他のセクシュアリティに対する抑圧にしても問題だけど、この論理じゃヘテロとゲイはどこまで行っても溝があるままなのよ。
ダニエルは裕実に対してこう言う。

「僕が言うことではないけど どうか彼を恨まないでほしい 裕実の貴重な時間がムダになるだけだからね」

まあそれはその通りだったのだけど、でも問題なことに、この作品のメッセージ性はゲイに対して分離主義的なのよ。
じっさいに、ゲイとヘテロ女の結婚生活だってあるし、お互いの性を尊重し合ったパートナーシップを築いている夫婦だっているでしょうによ・・・。
確かに、ゲイとヘテロ女には溝がある。それから、夫婦生活も難しいかもしれない。それは仕方がないのかもしれない。けれど、問答無用で「だからゲイはゲイと、ヘテロヘテロと仲良く」って言ってしまうと、同性愛者と異性愛者の繋がりは薄くなってしまい、一緒に絆を築くのは『良くないこと』になってしまう。それじゃあ困る同性愛者や異性愛者だって居るでしょうに。そもそも異性愛者にも同性愛者にもなれない人はどうしろと言うのだ。

裕実はその後ある男性(山本)と親しくなる。その男性はこう仰いますデス。

山本「・・・自分のセクシュアリティに気づかなかった彼も彼だけど 裕実はそんな彼とどうして結婚しようと思ったの?」
裕実「え?どうしてって・・・」
山本「裕実のような聡明な女性にこんなこと言うのは失礼だとは思うけど・・・ 裕実にとって彼はこれからキャリアを積み上げていく自分に邪魔にならない相手だったんじゃないかな?」
裕実「・・・そんな事・・・」
山本「本当に彼を愛していて冷静に彼を見ていれば 例え本人が気付いていなくても何か感じるハズだよ」
[・・・]
山本「・・・でもま、彼はそうやって自分に目覚めてしまったんだから 二人は別れるしかなかったんだと思うよ」

(ところでどうでもいいんだけど、そういや私初めてモノガミーな感情を抱いた相手って女性だったなぁ)

山本はこう言うけれど、自分のセクシュアルアイデンティティー(例:「自分はレズビアンだ」等)って、そんな傍目に明らかなモンじゃないのでは? 自分で自分のセクシュアリティがわからないなんて事はままあることで、アイデンティティーの確立って実はすごく大変なことなのだと思う。賢治だって自分をゲイとしてアイデンティファイするのには難儀した。そんなものが、はたして他人が観察しただけで判断できるものなのかしら?
で、彼らはセクシュアリティに対して本質主義的なんです。彼らは、誰もが同性愛者か異性愛者かに分かれることができると考えている。「自分はゲイなのかどうか分からない」という人も、この人達からすれば「性的に未熟だから本当の自分に気付いてないだけ」と考えてるみたいだ。つまり、「本来人は絶対に“本当の自分”というものがあるんだ!」と考えている。(あのー、私の立場はどうなるんですかー?少なくとも私にとって「セクシュアリティ」は“構築”していくものなんですけど・・・。)
そう決め付けることで、同性を欲望する人はゲイアイデンティティーを持つことで、「本当の自分」を探し出し生きて行くべきだとする。

本当の居場所?
そんなもの、
本当ははじめから見えていたのかもしれない

ただそこが、妙に薄暗く見えてしまったり 周りが妙に明るく見えてしまったりするから
私たちは結局、 遠回りばかりを選んでしまうんだ
・・・でも、それでいい
私たちは何度も もがいて 何度だって立ち止まり まだもがいて そうやって、 辿り着くべき場所へと向かっていくのだから―――

ふぅーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー。
あれだよね?アイデンティティがはっきり確立できる人には上手い論理(?)だよね?
でもさ、「辿り着くべき場所」なんて本当にあるの?仮にあったとしても、それは全ての人に与えられたものなの?
はっきり言って、私はゲイアイデンティティーを持つことは出来ないし、ゲイとしてゲイと仲良くなんて出来ない。そうやってアイデンティティーで人と人とを隔絶させられて、私は何処に居場所を見つけられるのだろう?
アイデンティティーが定まらない人だって居ることを忘れないで欲しい。


私みたいに<何者>にもなれない人は、一生「辿り着くべき場所」がないこの世界で生きるだけなんだろう。でも、私はそれでいいのよ。わずかばかり共有できる時間と、異なる人々と共に生きられる『隙間』さえあれば。
でも、そこでゲイたちがこうやって自分たちのフィールドを排他的に築いていくのなら、私に入り込める『隙間』などない。そうやって私はゲイから弾かれて一体何処に行けばいいのよ。
この作品には、<他者>と共に生きられる『可能性』というものを、もう少し見つけ出してほしかったなぁ。
探し求めても、いつまでも何処にも辿り着けない人のためにも。