願望のための舞台劇。後編。

おまたー!

BLレビュー。

ところで思ったんだけど、この方の書くキャラクタって物騒なアウトローな感じの人多そうじゃないですか?
この短編集に出てくる攻め達って、職業にしても性格タイプにしても攻めとして異色だと思う。そんな攻めだからか、セックスに暴力性を感じます。男性性に暴力性が含まれてあり、尚且つそれが男性のセックスにも含まれる・・・。


私は前回この短篇集をポルノ的と言いました。・・・ポルノってある特定のセックスファンタジーを描くために、あえてキャラクタの人格を粗く素描してると思うんです。「レイプされて喜ぶ」なんて話を描く場合、キャラクタの人格を深く掘り下げてしまうとお話の展開に無理が出てきますよね?だから、セックスファンタジーというテーマのために人格を押し隠してキャラクタがイメクラよろしく舞台劇を演じている・・・、という印象が私にはあるんですね。>レイプごっこ

だけれど、この短篇集の後半を読んでいくと、どうもそういう虚構的な「ポルノ」としてだけでは説明しきれないように思えてくる・・・。いや、虚構が案外深い、と感じます。単なる“安易なポルノ”ではないな、と。


では、以下ネタバレです。
(ちょっと痛い内容を書くので注意w)

  • 「犬と餌」における願望。
  • 作品全体に共通する願望。

これは、風俗店従業員である町田(受け)がオーナーの仁志(攻め)に性玩具として弄ばれているお話です。

 自分が自分でなくなる。
 町田が一番怖れているものは正しくそれで、仁志本人ではない。暴力的なセックスによって、町田を簡単に壊すことができる、仁志という男の存在が怖いのだ。

 きっと仁志がその気になれば、町田を破滅させることなど容易いだろう。なのに彼はそれをしない。じわじわと追いつめ、確実に堕ちていくのを傍観している。
 本当に嫌な男だと、町田は思う。
 どんな些細な行為も自分からは要求できない。そんな町田の立場を逆手にとって、仁志は絶妙なタイミングで一番欲しいものを与えてくる。まるで子供騙しな見え透いた飴と鞭。[・・・]いや、ともすると鞭でさえ、目には飴の如く魅惑的なものに映ってしまう。
 町田が仁志を怖いと思う、要因はそこにあった。

・・・これは隠された破滅願望か?

そして町田は、「自分は仁志から薬物を貰う代わりに身体を差し出している」と自分を偽る。

 自分自信(引用者注:本に誤字あり。自信→自身)に施した虚飾を剥ぎ取られ、自我を壊される唯一の時間。そこには微塵たりとも愛など存在しない。仁志にとってみれば、玩具を使ったただの性欲処理だ。
 それでも町田は、口実が欲しかった。
 [・・・]
 抱かれる代わりに大麻を手にするという、口実。
 恐怖という名の下にすり替えられた恋愛感情を、自分で欺くための口実。 

  • 「死ぬほど〜」における願望。
  • 作品全体に共通する願望。

(どうでもいいけど、このお話最後の部分時系列おかしいよ?編集さーん)

このお話は、受け(悠基)が自分の先輩(秋津)と再会するところから始まる。で、この秋津は悠基の想い人なのね。なのだけど、秋津は悠基の想いを知りつつも応えられないでいる。だけど、実は秋津もまんざらじゃなくって、セクシ〜な悠基に対して劣情を抱いているのね。・・・それでですね、秋津と再会した時、悠基は秋津の隣にいた日高という男(攻め)と出会う事になる。日高と悠基は出会ったその日にセックスをすることになる。つまり、三角関係のお話。
秋津は、日高にたいして、悠基の事を「あいつは相手をのめりこませておいて、ポイ捨てしてしまうような小悪魔系。」的な説明をします。悠基は、想いを寄せている秋津にすら そんな風評をされることに傷ついている。

そして、日高は悠基とセックスしていると、まるで噂の通りに蠱惑的な美少年な彼にのめりこんでいく・・・。

 「ヤッベエよ、俺。なんかすでにユウキ放したくねーかも」
 その言葉を受けて、悠基はうっすら微笑んだ。何もかも許すようなその微笑に、日高は一瞬にして見惚れてしまい、声を出すことすら忘れてしまった。どうせ一晩で終わる関係だ。そう覚悟していた心を、悠基はためらいなく掻っ攫う。

悠基は自分にまとわり付く噂を厭うている。実際悠基にはそれほど性的な経験はないらしいのだが、しかし秋津はその噂に負けたのね。だけど、日高は違った。

 「俺はどんな噂にもくじけねえ。お前を一番大事にする。それでも信じられねーんなら、お前の気が済むまで試していい。だからさ、俺と付き合ってくれよ」

最後に受けはね、覚悟を決めた日高の方にちょっと惹かれているのです。けれど、日高とセックスする前に「でも、きっと先輩の事を考えながらしてしまうよ?」と告げてもいるのね。二人の男の間で揺れる受けという設定だけど、これはきっと、受けの試しの物語だと思う。淫猥なのだと噂される受け。「そんな自分についてこれるか」と彼は誘い込むように男達を試している・・・と私は思った。(けれどお話では彼らの関係がどうなったかは書かれてない)
これは他のお話にも共通してると思うけれど、文章に書かれてはいない願望(つまり隠された本音)を叶えられるか、というテーマがあるんじゃないだろうか。「トモダチカンケイ」でも、攻めが受けに対して「お前を逃がさない」と告げることで、逆に 受けの「攻めにセックスされ続けたい」という隠された願望を実現してしまっていた。あれは共犯的な<願望の契約>だと思うのです。
「死ぬほど〜」の受けは、その契約を比較的に表だって行っているのではないか?「セックス」+「噂に負けない」という二つの要素は、自分の持つ願望を叶えるための『条件』だ。つまり、「死ぬほど〜」における願望とは、「淫らな欲望と、その欲望を持った自分をありのままに受け入れて欲しい」というものだ!と私は感じるわけです。

  • 「堕ちていく」における願望。

受けの母が再婚した。受けの義父になった男が攻めだ。受けは母を裏切り義父と不倫する、というお話。(「甘美な試乗」と近い?)

 紙切れ一枚で突然形成された家族だ。その繋がりは、ごく薄い。やめようと思えばいつでもやめられる。不徳な関係は、状況に胡坐をかいて、なかなかけじめをつけられない。[・・・]乱れ淫蕩な俺の身体。そしてそれに溺れる桐生。一体どっちが罪深いのか。
 いや、本当はそんなことどうだっていい。俺はこの感覚だけが欲しい。

  • 作品全体に共通する願望。

攻めは妻とセックスしたあと、妻にばれないように子である受けともセックスする。私は最初、こういう「不徳な関係」という刺激的な要素自体がこのお話における願望なのだと思った。しかし、これも先と同様、一つの試しの行為であるのかもしれない。
このお話では、受けと攻めとの関係を阻害する「母」の存在がある。「甘美な試乗」でも<女>が二人の関係のネックになっていたが、そのネックというか抵抗力を振り切ることが<願望の契約>成立の『条件』なのだと思う。しかし、そういう抵抗力があって初めて、二人の間に契約が結ばれるんだ。案外母の存在はオームのようなものなのかも。つまり、抵抗力も含めて一つの願望ではないのかな・・・?

そしてこのお話の続編である「掴み取れない」へ。

  • 「掴み〜」における願望。
  • 作品全体に共通する願望。

 母親はせっかく手に入れた再婚生活をふいにしたくないがために。義父である桐生は、母親と俺、ふたりの人間を囲うために。そして俺も、このうえなく刺激的な桐生との享楽を手放したくはなかった。

そんな義父である桐生は、受けに対して「この不徳な関係に恋愛感情はないな?」と確認を迫る。

 「俺はお前が嫉妬でもしてるのかと思った」
 その瞬間、呼吸が停止した。
 桐生の言葉は、いつも何の前触れもなく俺の核心に触れてくる。俺ですら認めたくない感情を、平気で傷つけ、引き摺りだして目の前に突き出す。それでいて、そうあってはいけないと、氷のように冷たい眼差しで拒絶するのだ。
 桐生が求めているのはあくまで、可愛くて従順な抱き人形なのだから。

 俺と桐生が、身体だけの関係でしかない。それは、俺が求めた結果であったはずなのに。

そして、受けは自分が抱えてしまった恋愛感情に苦しくなって攻めに別れを告げる。

 「正直俺、桐生さんとセックスすんの、もう・・・キツイんだ」
 「将也」
[・・・]
 「でもそれが無理なら・・・いいや。今日からでも別の相手探すよ」
[・・・]
 「俺をそんなに困らせるな」
 「・・・・・・」
 一蹴されて直訴は取り下げられる。

「セックスをやめる関係を終わらせる」と告げると、受けの恋愛感情を否定してきたにもかかわらず、自分の手の中に引きとめようとする攻め・・・。



私ね、この短篇集は単に特定のセックスファンタジーを消化できたらそれでいいよね、というポルノ的作品だと思ってたんだけど、作品を読み込むとこの願望の描き方はそう簡単に解釈できないんですよね。


ところで私自身、松田さんの書くセックス描写がすごく好きだったりします。けれど、同時に怖くもあるんですよ。暴力(自虐)に惹かれながら、同時に恐ろしくもある。そういう理由もあって、昔にサイトを「お気に入り」追加出来なかったりしたんですよね;
で、そういう自分にとって、この受けの惑い(?)って何かシンパシーを感じちゃうんですよね。レイプごっこにしてもそう。受けは悪漢な攻めに対する恋愛感情があったりします。たとえ恋愛感情がなかったとしても、「レイプ(をした相手)を受け入れたい」「こんな自分を受け入れて欲しい」という願望が透けて見えるのね。
私にとって松田さんの小説が魅力的だったのは、「相手はあくまで自分にとって手ひどい存在であって欲しいので、睦ましい恋愛関係にはなりたくない。しかし、そういう自虐的で一時的な関係であっても、ある程度維持していきたいし、ふたりの間にある程度の温もり(飴)も欲しい」というアンビバレントな願望が描かれてあるような気がしたから。
もしかしたら、そういう相反性がこの短篇集の特徴なのかも?と勝手に思ったんですよ(私的な解釈)。それが危うい奇妙で歪な物語性を生んでるのかな、と。たぶん、これらのお話に明確明快な願望はなくって、当人にもはっきりしない相反する願望がせめぎあった結果だけが存在しているんだと思う・・・。
つまり、矛盾したり相反する願望は実現が難しいものである。その願望を嗜好するために、虚構である舞台劇の形を成した小説なのではないか、と思ったんです。

nodada's eye.

今回紹介した短篇集のお話は、私の自虐精神と受けの惑いが重なる事で、ある種の快楽を私に与えてくれるものだったのだけど。。。
・・・ところで、こういう暴力性を嗜好するのは果たしてどうなんだろう、と自問しなくはない。けれど、別に現実のレイプを肯定するわけでもないしねw
ポルノ規制を見ればわかるように、性描写を現実の性行為と結び付けて批判する方もいらっしゃいます。「こんな作品があると、読む人の人格に悪影響が起こる!現実の性暴力と関連があるのではないか」とかね。この短篇集がポルノにあたるのかどうかはさておき、しかしそういう批判はあまり説得力はないような気がする。フェミによるポルノ批判というのがあったけれど、創作物と現実の行為の関連という論理がまかり通るかというと、難しい点もあると思う。

ともあれ、それでも「男らしさとは暴力である」みたいな表現を嗜好したり、暴力(あるいは自虐)を嗜好するということは、無批判に受け入れられていいのか?という疑問はある。たとえばSMという行為はどこまで許容されどこまで肯定されるのか、という話。
私は自分の嗜好や欲望に対して何らかの吟味反省をしたい人ではある。だから、私はDonna Minkowitzが自分の中の「獣」を認めたように、自分の中の嗜好と現実との折り合いをつけるため、きちんとその嗜好(「獣」)を見つめようと思う。(Donna Minkowitz macskaで検索してみてね)
そのためにも、私は私の嗜好を否定しないし、嗜好を消費することもある程度「アリ」だと捉えます。そして、暴力は隠すことで凶暴化されると思う。サディスティックな欲望やマゾヒスティックな欲望を隠し立てすることで、「嗜虐的なことはそれほどまでに恐ろしいものなのだ」と位置づけることになってしまう。過剰に暴力を神聖視してしまう。けれど、全ての嗜虐性が許容されない、という論理は成り立たないと思う。必要なのは、暴力をモンスター視せずに冷静に見つめ、いかにして現実との折り合いをつけるべきかを考えることのはず。
暴力を本当のモンスターにしてしまわないように、その嗜好を偽ったり隠し立てすることを私はしたくないと考えます。