これも現実の物語。そして、望む現実。

本当のことは言えない (幻冬舎ルチル文庫)

本当のことは言えない (幻冬舎ルチル文庫)

あらすじ。

向井春臣は、大学時代の元同級生・篠倉司と偶然再会。春臣がゲイだと知りながらも、家族ぐるみで受け入れる篠倉の傍は居心地がよく、篠倉と過ごす時間が増えていく。そんなある日、トラブルが重なり、春臣は思わず八つ当たり気味に篠倉を誘ってしまい身体の関係に。それでもまったく態度を変えず、春臣に接する篠倉の傍は離れ難いが・・・・・・!?

帯。

向井が好きだから顔が見たいし、構いたいんです
春臣がゲイと知りつつ、家族ぐるみで受け入れる笹倉。そんな彼の傍は居心地がいいのだが、ある日、春臣は篠倉と寝てしまい――!?

この書き方だとまるで家族全員が最初から春臣がゲイだと知ってるようだけど、違います。最後らへんになって、攻め以外の家族も春臣がゲイだと知るのです。

BLレビュー。

「本当のことは言えない」著者:椎崎夕 イラスト:街子マドカ | こんな本よみました…
これも一つの癒しの物語です。BLにはわりと、「自分はゲイという嫌われ者だけど、それでも相手は優しく接してくれる・・・」という物語が多くあったりします。(異論あったらどうぞー。) それはつまり、相手への無条件的な受容を描いたものです。否定的に捉えられる対象を「攻め/受け」に受容させることで、孤独や生き難さから解放されると言うカタルシスを味わえる。そういう物語だと私は感じています。
でも、「こんな自分なのに受け入れてもらえるなんて、・・・幸せ!」みたいな話に癒しを求めるほど、今の私は自分のセクシュアリティを否定的に捉えていない。なので癒されることはありませんでしたし、それに、春臣の経験した壮絶な過去と、現在も引き続く差別的な抑圧を読むこと自体、正直疲れます。(300p超!)
しかし、この作品には男同士の関係を肯定しようと試みる力動を感じました。まあ・・・、ゲイ(バイも?)だとか男同士の関係を“よくはないもの”として位置づけている印象はありますが、この肯定度くらいが現代のBLの限界なのかもしれません・・・。(早計?)

以下ネタバレ。


これは春臣のトラウマと自己否定的な諦念がネックの物語でした。男男関係で恋愛したことにより、彼は過去に壮絶な経験をしています。自分の家族とも絶縁状態になり、現在も(家族以外にも多方面から)ひどい仕打ちを受けています。そんな彼は、クールで物言いがハッキリしていて強い人間のようにも見えます。けれど実は、傷を抱えながらも周囲に弱みを見せんとする、痛々しい人間でもあるのです。
そんな哀れを誘うキャラクタの物語です。

実は私。この本の「本当のことは言えない」の続きである「未来完了形」というお話が好きです。攻めである篠倉はストーカー体質だし、押しが強すぎて気持ち悪いのですが、それでも彼の性格が私の好みでした♪
どんな性格かというと、こんな感じです。↓
篠倉は大学に勤めており、研究熱心な人間です。あまりに熱心すぎて周囲から「宇宙人」と呼ばれたり、今まで付き合ってきた女性に呆れられたりするのです。論文の事になると、付き合ってる人の存在など目に入らず、生活も乱れ、しかも会話が常に講義口調と言うことで(w)周囲を唖然とさせる篠倉・・・。(しかし、そんな篠倉を春臣が変えさせます。今まで人に執着したことのなかった篠倉が、春臣限定で異常なまでに執着するようになるのです。・・・いっそ気持ち悪いほどに。)
それでですね、彼の子ども時代なんかも共感できるんですよね・・・。
篠倉は子どものころから周囲の人間と浮いていたようです。他の子ども(って誰?)とは違い、おもちゃやお菓子を取られても気にしない。そんなものより、変化する空の風景や、珍しい岩石や古城に飾られた鎧を好みました。家族はそんな篠倉を心配し「病院で診てもらった方が・・・」と悩みますが、父だけは篠倉のありのままを肯定しました。
その父も今はいないけれど、しかし、春臣はそんな篠倉にこう言うのです。

 「だから、僕がつきあってんのは宇宙人じゃなくて笹倉司だっての。[・・・]」

篠倉は時々「私は変わっている、宇宙人の思考回路だ」と自嘲気味に自分を語ります。しかし、春臣は「お前は確かに変わっているけれど、宇宙人じゃない。」と言うのですよ。

世間では、男に欲情したり恋をする男を「普通じゃない」と言います。
世間では、研究ばかりに没頭して他を省みない人間を「普通じゃない」と言います。
けれど、彼らはお互いに、その「普通じゃない」と言われた部分を(ある程度)肯定しつつ、相手を好きになるんです。
こういうのって、けっこうBLではセオリーな気がするんですけど、どうでしょうか?

でも、もちろん肯定したからって問題が解決するわけではないですよね。
だって、春臣と篠倉の男男関係は、篠倉の性格よりも異端視されやすいでしょうし、世間からの差別的な軋轢もあります。ですから、上記のように「俺はお前を異端視しない」と表明するだけでは問題は解決されません。同性愛への風当たりと言うのは、二人だけの問題ではないのですから、二人の努力だけではどうにもならない部分があります。(差別全般がそういうものだわな)

男同士で付き合っていく中で、問題は色々ある。・・・それでも彼らは、篠倉の家族に二人の関係を隠さずに打ち明けた上で、付き合い続ける事を選択します。
篠倉の家族は、二人の関係を知るまでは、二人を“受け入れ”ていました。良き息子、良き友人として・・・。ですが、二人が恋仲である事を知ると、途端に態度が変わるのです。しかし、そんな家族に対して、二人は二人なりに折り合いをつけようとします。たとえ“受け入れ”られないとしても、せめて家族との繋がりだけは途絶えさせないように、努力するのです。

そんな努力もあってか、最後には篠倉の家族は二人を“受け入れ”ようと歩み寄ります。

ちょっと話をそらして・・・。

ところで、この作品はスピンオフでして、前作のキャラクタが少しだけ登場します。その登場人物に、心優しい善意の塊のような、おばあちゃんがいるのです。そのおばあちゃんはゲイの春臣を友だちとして“受け入れ”ています。それから、ゲイである自分の孫とそのパートナーの青年を“受け入れ”ています。

篠倉の家族とおばあちゃん。この二つの存在が面白かったです。

おばあちゃんは善意の塊なんですね。とても包容力のある人として描かれてあるのです。読者からしたらこのおばあちゃんは「(嫌われ者な)ゲイであっても“受け入れ”ていられるほど、心優しい人」として映るのではないでしょうか? つまりここでは、『ゲイの受容=善意があるからできること』という意味合いが生まれているのだと私は思います。
最初から“受け入れ”ていたおばあちゃん。
最初は“受け入れ”られなかった篠倉の家族。
そういう構図があるんですね。
ここでもし、篠倉の家族が読者から見て悪印象だったらどうでしょうか?
もしかしたら、「おばあちゃんは善人だからゲイを“受け入れ”たけど、篠倉の家族は悪人だからゲイを“受け入れ”られなかったんだ!」という印象を受けませんか?『ゲイの受容=善意があるからできること』と解釈してしまいませんか?

もし、そのような解釈を与えてしまうような表現だったら、けっこうひどい表現だと私は思います。だって、善人であるかどうかでゲイを“受け入れ”られるかどうかは決まらないのだもの・・・。でも、この作品ではそうじゃないんですよ。実のところ、篠倉の家族もおばあちゃんに負けず劣らず、気持ち悪いほど善人な集団なんですよ。つまり、両方善人であり、「善人だからゲイを“受け入れ”られるんだ!」という解釈ができないようになってるんですよね。

あのですね。・・・ゲイを肯定できるかどうか、“受け入れ”られるかどうかは、決して善意があるかどうかでは決まらないと思うんです。
たとえ善人であっても、その人が異性愛中心主義的だったり、同性愛嫌悪を強く内面化していると、どうしてもゲイを異端視してしまったり、排除してしまったりしますよね。だから、問題は善意があるかどうかじゃないんですよねー。

それでは話を戻して。

篠倉の家族は、最後には二人に歩み寄ろうとします。それまでは避けていたけれど、「お正月には二人で遊びにおいで」、と電話してくれるようになったのです。どうなるかはわかりませんが、彼らは確かに歩み寄ろうとしたのです。
さて、これはどう評価しましょうか。


私はね、ゲイ(バイ)の息子・父親・兄弟etcを“受け入れ”ている/もしくは“受け入れ”ようと思っている家族が現実にいる事を、知っています。この家族の<あり方>は、BLという、小説の中だけのものじゃないことを、私は知っています。「BL」というお話はもちろん架空の物語ですが、この家族は現実にも「います」。決して、ゲイ(バイ)を“受け入れ”ることは、架空の物語ではありません。

そして、この物語で学ぶところは、

 「『普通』が一番ですか。そう思うのはそちらの自由です。ただ、そちらの言う『普通』は、根本的にはただの多数決に過ぎません。[・・・]」

 (他人と同じだから安心できると言うわけでもないでしょう。本人が自然にするのが一番だと、私は思いますよ)

という「普通」を絶対視しない姿勢だと思います。
この作品は「普通と呼ばれないものでも、そこにあっても良いのではないか」という肯定のパフォーマンスをしているのだと思う。(ちなみに私は、上記のような「あくまで『普通』と呼ばれたものが普通であり続けることを覆さない(もしくは逆に強化する)」肯定のパフォーマンスをあまり高く評価しない。)
私はこのパフォーマンスはあるところで躓くだろうと思うけれど、それでも、この作品には肯定を試みる力動を感じます。この力動が、ハッピーエンドをもたらすのです。そして、それを読んだ読者は「『ゲイ』カップルが幸せになれてよかった」と思うのかもしれません。もちろんそういう感想を抱かない人も居るでしょう。けれど、この作品には、望みがありました。離れてしまうかのように思えた家族が、「ゲイ」カップルに歩み寄るのです。この望みを、私は架空の感動として受け止めようとは思いません。この本(架空の物語)を読んで得た望みは、現実に続くものだと思っています。
だって、この本のキャラクタたちが織り成す物語を通して「男同士でもこんなふうに幸せになってもいいんだ」というメッセージを受け取りましたもん。

BLでもなんでもいいのだけれど、こういうふうに異端視されたものを排除しない結末の物語があること、そしてその感動が人に受け入れられることは、良いことだと思っています。
なぜなら、そういう「ハッピーエンドを望む」感性が、案外、現実にゲイの受容を高めたりするんじゃないだろうか・・・と安直な期待をしてしまうからです(笑)
ともあれ、「ゲイが不幸になるのは仕方がないので、ゲイカップルは家族に受け入れられないまま、二人だけの閉じられた世界に堕ちておしまい!」というお話にはならない現代の「BL」を、私は評価したいと思います。


皆様は、どう感じたでしょうか。私は、こう感じました。以上!