家を探していた。

泣くのはおよしよ仔リスちゃん (マーブルコミックス)

泣くのはおよしよ仔リスちゃん (マーブルコミックス)

私が愛しているコミックス。アユヤマネさんのインタビュー記事がこちらに載っています。

この作家さん、私大好きなんです。でも、この一冊しかコミックス出されてないんですよ。だからこの一冊だけで私はアユヤマネさんのファンになっちゃってるんだけど。と言っても、今なぜかこのコミックスが手元にない。誰かに貸したのかもしれない。あるいは、家のどこかにあるのかもしれない。ともかく、なんでか知らないけど手元にないんです。よくそんなんで「愛してる」と言えるな、自分。でもま、私の「愛」なんてそんなもの。
そんなわけで、今回はレビューじゃなくて、只読んだ頃の過去を思い出して我がごとを書き綴りたいと思う。

さて、インタビューから始めるのだけれど、私はこのインタビューを読んで、自分が想像していたアユヤマネさんの姿と、微妙に違う一面を覗いてしまった。天然の天才、だと私は思っていた。だけれど、アユヤマネさんには「漫画家になりたい」という野望?みたいなものがあったり、漫画手法の模索があったりして、「自然と身についた天然エネルギーだけで自由奔放に執筆なさっている」という私のアユヤマネ像とは違っていた。なんだ、この人努力の人だ。と気づく。(真実は知らない)
そしてこの人は、ゲイ描写について、それなりに計算をしていた。思いの外、自分自身の中に「正しさ」を持っていたのだと知る。私は、そういうのではなく、ただ自分の気ままな感性としてあの作品を描いてたんだと想像してた。しかしそれは違ってて、この人はちゃんと自分の中で、世間や一部のBLに対して「おかしい」という意識があって。そしてそれを政治的に伝える意思があってあの漫画を描いていたのだと、私は知る。

アユ だからこそ、なのかもしれませんけど、逆に話はもっと現実的にしたいというのがあるんです。誰も気づいてくれなかったんですが、実は「タイニー颱風」に出てくるゲイのあっちゃんが言う台詞はわたしがボーイズラブに思っていることなんですね。
― 四二ページ、主人公があっちゃんに、俺の友達を口説いたりするなと言うんですね。それに対して、「俺が仮に女だとして、やっぱりすぐそんな風に警告するのか?」って、ここすごくいいシーンですよね。
〔・・・〕
アユ このシーンは、最近でもたまにTVでゲイの人が出てくると、周りの男性が「襲わないで〜」とか言いますけど、これだけゲイが認知されてきたのにまだこのノリっておかしいだろうというのがあって描いたんです。

私は正直BL作家にこういった姿勢を求めていない。なぜって、人の持つ「正しさ」というもの自体信用していないし、BL作家の描く温情的なゲイ描写に対して割と疑いの目を持ってる。私は疑り深い人間です。なぜか、「この表現には何か問題があるんじゃないか?」とか「何か裏があるんじゃないか」と穿った視線で作品を眺めてしまう。
だからなのか、私は、自分の理想であるアユヤマネ像に「天然」さを求めていたんだ。だって、その計算は、私にとって信用ならないものだったから。

インタビューで言及されているお話の「タイニー颱風」は、とてもとても、心優しい物語だ。
「ゲイ」であるあっちゃんと、同性の親友にまるで片想いをしてるかのような(いや、本当に片想いだったのかもしれない)主人公との、温かい心の交流を描いた作品だ。
しかし、この作品には「癒し」というには、あまりに切な過ぎる、胸に刺さる台詞がある。あれだけは私の胸に刺さって取れない。

インタビューでは載っていないし、実際には完全に覚えていないのだけれど、あのあっちゃんの台詞だけは、あれだけは私の胸にさっと突き抜けるように刺さる。
あっちゃんは、こんなことを言う。

「今の生活じゃあ出会いは無いしなあ そろそろこの先の人生を一人で過ごす 覚悟と準備をしなきゃならないかね




そんなブラックホールを覗き込むような顔すんなって 本気で滅入る」

そして、主人公から「だって、さみしくない?」と聞かれる。

あっちゃんは確か保育士だったと思う。そして仕事以外の行動範囲が無いみたい。
・・・彼の言うとおり、積極的にならなければ出会いは無いのかもしれない。「特別な誰か」を持たずに過ごすことになるかもしれない。彼は言う。覚悟だけではなく、「準備」・・・、と。それはとても現実的な言葉で、なんだかすごく重くて、読んでるこっちまで途方も無くなる。そんなことをさらっと淡々と語るあっちゃんは、主人公のまなざしを受けて、「ブラックホール」と言う。ブラックホール!それは確かに闇で、主人公の目の色のことはではなく、あっちゃん自身の抱える事実なんだ。(なのかもしれない)

そして、その後のあっちゃんの台詞が、私の胸を指す言葉なんだ。
この日彼らの住む地域には台風がきていた。二人は台風が吹き荒れるその時間、あっちゃんの家の中にいる。その家の中で、あっちゃんは「つらいことは、こうやって過ぎ去るのを待つのさ」みたいな事を言っちゃうんだよね。
私はこの台詞を聞いて、かなり驚いた。だって、これって私が考え続けてきたことだもの。というかまあ、高校生をやっていた頃、強く思っていたこと。
私は家の中が好きで、というか、雪や強い風が吹いている時間に家の中にいることが好きだったのね。あの、守られている感じが、なんだか落ち着いて、心地よかった。台風が来ることでわかる。「ああ、自分には家がある」って。家が無かったら、傘もないし、車も無い私は、台風に負けてしまうかもしれない。けれど、私には家がある。だから大丈夫、と思える。その安心感が、あの頃の私には心強かった。私はあの頃、まるで自分の気持ちに降りかかる事柄を天災のように捉えてたのかもしれない。「雨が降っても大丈夫。自分は大丈夫。」そう思いたくて。なんでか、ほかに頼れるものなんてひとつも無いみたいに思えてて(いや、「自分には自分がいる」とは思ってた。)、誰かが守ってくれるとは思えなくて、誰かが私を見てくれるとはとても思えなくて、きっといつか自分は見捨てられると思って、心の無い箱(家)だけが心強くて。家を探してた。家さえあれば、自分は一人で大丈夫なんだと信じられた。だから、私にはあの言葉が、すごく直球で届いてしまって。驚いた。あれは私のことか!って。あっちゃんは家の中にいればいいと、言う。私もそう思っていた。家があれば、外が寒かろうがなんだろうが、ただ温もって生きていられる。なんでこの気持ちを知っているんだろう、あっちゃんは。私だけだと思ってたのに。
でも、あれはもう昔の感情でもあるので、今は読みたくないかもしれない。というか、当時読んでたときも必要以上に感情移入しないように読んでたと思う。しちゃうと、なんかヤバい気がしたから。だって、ブラックホールは怖いしね。
だから、今手元に無いことはいいことなのかもしれない。

こんな漫画を描いた人がいる。その人は、「これだけBL界に作家がいるのだから、こういうBLを描く作家も出てきてもいいと思う。」と言う。


・・・・ところで、私は思うのだけど、ゲイアイデンティティーのないただひたすらにライトなBLにも、十分エンパワメントな表現力はあったと思う。だから、
ゲイ表象のことを考えるBL=ゲイにエンパワメント
[ファンタジー]としてのBL=ホモフォビック
みたいな雑なBL観は大嫌い。それは違う。私はファンタジックとさえ言えるBLの世界観とキャラクタ描写が大好き。だって、「こういう明るい不敵なセカイって最強だよな」と思えるから。それに、「ありえない」はずのセカイをイメージする機会を漫画や小説が与えてくれるって、それだけで素晴らしいし、なかなか意義がある。そういうのも、忘れちゃいけないんだよ。「ゲイ(アイデンティティー)」表象するだけがゲイ、というかクィアに関わってくることじゃないよ。


それはともかく、アユヤマネさんにはあの表現を描くにあたって、計算みたいなものがあったらしい。自分がおかしいと思ったことを作品で伝えていく、という計算が。それはとても政治的なことで、さらに言うと評価に値することなのだけれど。でも、私はBLを読むことで勝手な解釈をするのが好きだった。メッセージを投げかけられるよりも、「読み」を自分の手に掴んで、搾取するのが好きだったんだ。
私はね、「書(描)いてる本人はそんなこと考えてないだろうけど、私はこういうBLらしいBLにずいぶん救われてるなぁ」ということを体感しているのね。「ゲイかどうかわからないキャラクタが割とお気軽に男同士でメイクラブして、しかもその関係を周囲から否定されること無く恋を謳歌する」みたいな作品は、かいてる本人からしたら「面白いからかいてる」だけのことなんだと思う。だけど、それがいい。私はかいてる本人の意図とは別に、「ああ、こういうのがBLのいいところなんだよなぁ(理由:現実社会の痛みを抜け落とした世界を、痛み無しに楽しめるから、等々)」と勝手に感動しちゃうんだ。そういう、勝手に読み取って勝手にエンパワメントされるというのが、私にとって定石だった。それはまさしく私だけの「読み」で、私だけの真実。信用できる真実。だけど、そこで計算された温かさがあるのだとしたら・・・と思うと、なんだか怖くなる。だって、それは与えられた「読み」であり、それゆえに、そこに提示された答えらしきものは他人の真実のように思える。でも、私は他人をそれほど信用できないので、ちょっと不安になる。私はこの表現から伺える作家の優しさを受け取っていいのだろうか?と。

結局のところ、私なんかは、家だけがあればいいのだと思っていて。今もそれはそのままで、誰かの心があるから安心できるものではなく、心が無いから(そして丈夫だから)安心できるものがほしいのだと思う。
家は私に安心を与えたけれど、他人は本当に安心をくれるだろうか?それは相手を信じないと始まらない話で、家みたいに手に入れたら終わる話でもない。私は受け取れるだろうか。人の心を。ちょっと不安だ。


家がほしい。でも、思えば私はいまだに自分の家を見つけられていない。台風が来ても大丈夫な家。自分だけの家。まだ、手に入れていない。それを手に入れることが、いいことなのかもわからない。ただ、家さえあれば、あとは自分だけでも暖を取れる、ような気がする。家さえあれば一人でも生きられる。本当かどうか知らないけど、少なくとも、高校生やってた頃は、それを信じてたんだよね。