「バナナはおやつに入りません」れびゅー。

入らないらしい・・・、理由は・・・謎です。

バナナはおやつに入りません (GUSH COMICS)

バナナはおやつに入りません (GUSH COMICS)

[rakuten:chuoshoten:10014724:detail]
だからな?あまぞん?

  • あらすじ。

ある日突然、オレは「おにいちゃん」になった…。「おにいちゃん♥」と毎朝オレを起こしてくれ、弁当を作ってくれる、お菓子作りが大好きな可愛い………弟。そう、弟。そこらの女子より可愛いけど弟! なのにオレはドキドキしちゃってしょうがない。ひとつ屋根の下、萌えゲーみたいなシチュエーションにこのまま流されちゃいそう!?

  • 帯表。

「おにいちゃん♥」それは男のロマン・・・だけど!?ウラに続く→
天然メガネのダメ兄貴を小悪魔弟が襲っちゃう!?タカハシマコ最新作品集!

  • 帯裏。

「おにいちゃん」に萌えー♥

「に」に「・」がついてます。あと、本文の一コマが掲載(後に引用)。

BLレビュー。

表題作はあらすじ&帯の通りなんだけど、私の萌え路線とは逆行してるようなので正直ドウデモイイ(おかしい、私のお兄ちゃん萌えはそんなに希少なのか?)。ところで、タカハシさんの描く少年って微妙に“外”の匂いがします・・・。私はBLばかりを読む人だけど、何だろうこの一風変わった匂いは?攻めと受けを描いてるというよりは、正に<少年>を描こうとしているからでしょうか?ともあれ、私好みのBLラインと重複しているので無問題ですけれど。

で、内容的には古典的に「『男子校』と『兄弟』で異性愛パターンを擬えてみました!」みたいな表題作他なのだけど、やはり独特の味わいがあったと思います。
表題作では、受けが抱く「罪悪感」に対する攻めの拒絶反応が拒絶したい事柄を逆に認定してしまっているというレトリックの表現と(&そしてその予想に反する事実や)それに呼応する形で回収されてる二人のトラウマとカタルシスの描き方が『タカマコ流』といった印象で、ファンには美味しい作品となってるかも。そして・・・。

「なんて絵にかいたようなダメ兄貴♥」
モエ〜

受けの意外性はこのベタな処にあると言っていいのでしょう、弟君の<萌え>(欲望)は「男のロマン」を性的にまなざし返す意図の現れであり、受動的なはずの弟受けの能動性を示す。そして、二人の間には即物的と評されるよな<萌え>だけではない信頼性も在る訳で、発想に捻りを置く表現式でありつつもロマンチックな味わいになってるかと(知らんけど)。

あと萌え要素ですが・・・、表題作のおにいちゃんだけではなく『青苺赤苺』等の攻めにも共通なのが「流され易さ」、これが<攻め>の付け込む隙となってるらしく、本作品における私の唯一の萌えでしたv(ん?ところで表題作のおにいちゃんは本当に攻めだったのだろうか・・。まあいいや<オイ)

『百年レンズ』。
これ本誌で読んだときは萌えたんだけどなぁ、なんでかアッサリと読了。メガネというただの視力アイテムを使っているのだけど、叙情的レトリックにより不思議な世界観(百年間砂嵐で隠された誰もいない塔)がかもし出されている・・・。のだけど、未来や人の心理が分かる超能力者だと思い込まれている攻めの当然で冷静な指摘により、そのオカルト性はまやかし(錯覚)として処理される。だが、その「当たり前の事実」こそが彼らの愛を救い上げ、希望を見出させてくれるのだ。

「おまえはもう死んでいる 百年後は オレも お前も」

「オレの心はオレにしか見えないと思ってたから 百年たってもそれは変わらないことなんだと思ってたから けっこう感動する」

これは普遍性に対する二人の感じ方の対比となっています。だけど後半では非情緒的な攻めもまた、事実を自分なりに解釈してみせて、より現実的な行動へと歩みだす。
事実は只事実なのだけど、だからと言ってソコに主観が入り込む価値や意味がないわけではなく、どう解釈し、どう見てみるのかが重要。見方によって世界と自分(そして「誰か」との関係)は形を変える。私、こういう哲学的なレトリックによる感動が、案外好きだわ。
そして、この手法で私が一番感動したのが『青苺赤苺』。
攻めの一五は先輩に問う。

「どうしてオレのことなんて好きなんですか?」
「―――・・・世界を肯定させてくれるから」

先輩は今までモテてたのでよく告白されていた。だけど、先輩はその人たちの心を否定して生きてきた。

「うん オレもそう思ってた ―だからオレなんかを好きなやつはまちがってる その心はウソだ!って思ってたんだ でも一五を好きになって始めてこんな心が存在するって知ったんだ どうしてこんなにも好きになってしまうんだろう どうしてこんなにも胸が苦しいんだろう どうしてこんな気持ちになってしまうんだろう 何も知らないのに オレの心もオレのことを好きだといった子達の心も 確かに存在したんだ 世界に確かに存在してたんだよ」

先輩は多くの人が自分に告げてきた「好き」という感情を認められないがゆえに世界を虚ろに捉えていたみたい・・・。だけど自分自身が恋をすることで、世界に存在する人々の想いを認識できるようになったのね。それが虚ろな世界の肯定となった訳です。
ここで私は最近ちょっと嫌だなと思ったある表現を連想した。BLにも色んな表現があるけれど、一部には「好き」という感情に対して色んな理屈を付けるモノもある。それはそれで楽しいし真実(?)なのだろうけど、たとえば「男同士なのに相手のことだけが欲しいと思う、だからこれは純愛なんだ」という表現を見るにつけ思うのが、“「禁断の愛」におけるロマンチシズムへの懐疑”だ。男同士だからという事を『ハードル』に見立てた上で、「そのハードルを越えるからコレは究極の愛なんだ」みたいに言うBL様が時々居られる。だけど、あれって結局はゲイ等(に限らないんだけど)を「<普通>の恋が出来ない異常者」として異端視することとなんら変わりないと思うんです。
でも、↑で挙げた表現では、「好き」という感情に理屈を捏ねていないのね。何でかわからないけれどこんなにも好き。そういう感情をある意味“叙事”的に抜き出しつつも、感情を「世界の肯定」として情緒的に評価する。『百年レンズ』同様、感情は只感情なのだけど、その感情を世界と自分という関係性の中に置くことで、改めてその当たり前の感情の価値を見出せる。そういう手法がとっても感動的でした。
何が愛かなんて分かりっこない謎・・・。理屈コネコネのBLもこの謎に対する一つの答えだけど、コレもまた一つの答えなんだな、と思うと嬉しかった。初めから存在をそのまま肯定しちゃえるパフォーマンスが、私は好きです。

メモ。

「人がせっかく『おにいちゃん』だと思って遠慮してたのに〔・・・〕好きな人と一緒に生活してるのって色々大変なんだから 男の子だもん」
「ちょっと待って!!好きな人って『おにいちゃん』だろ!?」
「おにいちゃんに決まってるじゃない 『おにいちゃん』じゃなくても・・・」

以後の言葉は宙吊りになっててよく分からなくなっています。しかし。

「『この人は{おにいちゃん}{おにいちゃん}って暗示かけて』」

暗示かけて我慢していた、とある。「おにいちゃん」は性愛の対象になるはずはない、という答えを出している。まあ当然といえば当然。なのだけど・・・そこに少しの不満を感じるのが私の業深き所以w