「嵐のあと」にセクシュアリティ間の差異は残るか。

ペニス増大サプリで彼女も満足!ランキングで使えるサプリを紹介
わーい、待ってました!サイト・デルタGの「クィアスタディーズ講座」(web)連載が再開されました!相変わらずすごく分かりやすくて、且つ刺激的で、耳学問もいい所の私には優しい内容。「ジェンダーは『オリジナルなきコピー』である」か。次回にも期待!
さて、本題。

嵐のあと (花音コミックス)

嵐のあと (花音コミックス)

  • あらすじ。

輸入インテリア会社社長の榊は、男同士のドライな恋愛関係に満足していた。だから、取引先の担当者・岡田の事も好みだと思うだけで、本気になるはずはないと油断していたのかもしれない。しかし、記憶をなくすほど飲んだ翌日目を覚ましたそこは、岡田の自宅で…!? 岡田の無自覚な言動が榊の心をかき乱す…! 切ない恋が胸に迫る大人の純愛ラブストーリー♥ 描き下ろしは後日談♪

イイケド、主観の混じったあらすじですね…。

  • 帯。

本気だから言えなかった
ドライな恋愛に手慣れた男が、狂おしい恋に落ちた――

初サイン会開催!!詳細は花音HP!

こっちも微妙…。
ちょい読み。↓
トップ | web花音 | 芳文社

BLレビュー。

嵐のあとというのは、その地に何らかの“傷跡”を残すものだろう。もしかしたら痛ましい傷跡だったかもしれない。もしくは、嵐の奇妙な“揺らぎ”がもたらしたのは、新しい<世界>だったかもしれない。その揺らぎの後の世界というのは、私にとって恐るべきものであるかもしれないが、破壊と共に進歩や変革と言うべき傷跡でもあるとしたら…。そう信じる先にこそ、あるいは“意味”が生まれるのかもしれない。何より、読者である私が望んでいることだしね。

さて、スタイリッシュなセンスが匂う、淡い人間ドラマを描いた日高さんの最新コミックス!先月発売でしたが今ごろれびゅー致しマス。
本作は『シグナル』のスピンオフですが、「友達」としての榊しか見てなかった読者としては、恋に臆病な彼の素顔はなかなか意外なものだったかもしれませんね。あらすじではうっかり「ドライなセックスライフを送るゲイ」というステレオタイプとして描かれていますが(笑)、実はそうした皮相的な印象付けは本文ではあまり意味がなくて、彼の生き様はノンケの岡田によって“独り善がりな保身”として解釈されちゃいます…。榊の魂は「ゲイ」全体の心性と関わり無く、あくまで「個人」(弱者)のものであると強調されるワケです。
感想としては、恋愛感情の発展がちょっと急ぎ足と言うか、榊の初恋の複雑な心境がいかに次なる恋と結びつくのか、その恋が岡田に向かう瞬間がどこだったのか、良く分からないのです。また、ページ幅の問題もあったのかもしれないけど、岡田の内面・心理がほとんど描かれておらず、彼の心境の変化が突拍子のないものに感じました。
今回も日高作品らしく、一方が押し寄るのではなくて、(最終的には)お互いが歩み寄る形で物語が進行するのですが、岡田がなぜ歩み寄ろうとしたのかが不透明で、二人の情緒面までには入り込め無かったのが残念。
そうそう、今回も脇キャラがチョカリ過ぎない程度に生き生きしていましたね。中森さん好みだったー。そして興味深かったのが脇キャラの彼女たち・ヘテロが好みの男性がゲイであることに不満(笑)を漏らす所です。なぜか世間では「ゲイはヘテロ男性に言いよって来る(けど振られて可哀相で)迷惑な変態」と思われがちですが、ここではゲイもヘテロも(レズビアンは?)平等に描かれていましたね。
あと蛇足ですが、今回登場した榊のパートナー・美山が!あまりにも私的にツボでした!!好き!!
好き!!<二度言います。
好き!!<更にもう一度言います。
彼の個人主義と「歪み」が、私にはあまりにも見捨てがたい。ああ、私がBLに求め続け、しかし与えられなかった<孤独>がやっとここに…。

nodada's eye.

以下ネタばれYO!




おそらく、今回のお話はゲイキャラクタ・榊の物語であると錯覚(!)されるかもしれませんが、断言しましょう。これは、ヘテロ側がクィアと距離を縮めようとする岡田の願望物語です!

榊「美山 お前ノンケとやったことあるか」
美山「なに?あるよ何度か」
榊「・・・好きになったことは?」
美山「あるよ てゆうか最初はみんなそうなんじゃない」
榊「最初なんて気の迷いだろ」
美山「気の迷いだった?」
榊「さあ?」

昔 同じようなことがあった 学生の時 初めて本気で好きになったヤツがいた 彼はゲイじゃなくて いい奴だけど言えなかった
本気だったから
彼の目の中に嫌悪感が浮かぶことをただ恐れた 今までの関係を壊してしまうことに耐えられなかった

榊は岡田の「オカマっぽいね、榊さんて」という言葉で苦しい初恋をフラッシュバックしちゃうのです。この怯えが彼に二の足を踏ませるのですが、そんな榊に岡田はこう訴えます。

岡田「いつまでもうだうだ昔のこと言って 俺のことちゃんと考えてないのはあんたの方だろ!? 中途半端に手を出してきて人の気持ち勝手に想像して勝手に怖がって ずっと避けてまた全部なかったことにするのかよ」

コレに対して、彼は諦念を含んだ表情をして「男同士の恋にヘテロが熱くなっていられるのは今だけ」と諭します。が、それでも岡田は思いを打ち明け続ける…。

岡田「俺…中学の時さ ずっと好きな女のコがいたけど結局告白できなくてさ 振られるのが怖かったていうより たぶん気持ちを伝えて そして世界が変わることが怖かった 同じなんだよ 榊さんはガキの頃の俺と同じだ」

そして彼は「この気持ちを昔の俺と同じに無かった事にしないで、少しは俺とあなたの気持ちが重なる可能性も考えてみてよ」と言って、ゲイとヘテロの間に壁を作りたがる榊の「恐怖」(?)を乗り超えて欲しいと願うのだ。

この奇妙なねじれに気づくだろうか?岡田は自分のヘテロな経験と榊のゲイな経験とを、「告白後の不安」を共通項にして同列に置いている。そして榊の恐怖を「告白と言う嵐のあとに訪れる変化への恐怖」だとした上で、目の前の感情に怯え押し殺す事に異議を唱える。しかし、果たしてこの二人の経験は「同じ」と言えるものだったろうか?

二人がデキたあとに、岡田は偶然に美山と出会う。そこで美山はやたらとゲイとヘテロの差異を強調する。

美山「どうせ俺にはノンケのフツーはわかりませんよ」
岡田「誰もそんなこと言ってないだろ それにノンケとかゲイとかやたら強調して隔たりをつくるなよ」
美山「だって隔たりあるじゃん あんたは片足つっこんだつもりなんだろうけど全然違う」

↑の論拠として美山は「男女に違いが有るように、ゲイはお前と違って女相手に勃起しない」ことを指摘する。まあこの時点で、論理としてはかなり胡散臭くはあるのだけど(笑)、ここで美山は「ゲイとノンケ」の壁を取り払いたい岡田の思惑を浅はかだとしているのだ。
しかしソレに対し岡田は、“恋の喜び”を共通項にして、「こういう感覚はみんな同じだと思うよ」と結論付けるのだ。
…微妙に横すべってると言うか噛み合ってない感が。ボソ

ここで繰り返される岡田のロジックはどちらも(アセクを恣意的に除いた普遍的)「人間観」を論拠としている。そりゃ、みんな同じ人間なんだからどこかしら共通項は見いだせられるのだけど、岡田はこの不十分な論拠をもってして「ゲイとノンケ」の壁を取り払えると信じているのだ。…そう、「俺とあなたの気持ちが重なる可能性」を見いだすために。


思えばBLとはゲイとヘテロ男性の境界線を揺るがしてきた文化だ。それは岡田の「俺とあなたの気持ちが重なる可能性を少しは考えてみてよ」という言葉が非常に上手く示唆しているところだ(と思う)。私も同様の意見をこのレビューブログで発言した事がある(人をセクシュアルアイデンティティで分け隔てる試み。 - のだだがBL読んだ。参照)。しかし、それはゲイとヘテロの差異に目をつぶり、(違いを)なかったことにしようという論旨では、ない。差異を見据えてこそ、二項の間に対話が成立するし、この異性愛中心主義社会においては同性愛的経験を無視した対話は期せずしてクィアに抑圧を強いる事になるだろう。そうした抑圧は、たとえば榊が初恋相手に告白出来なかった理由を岡田が加味せず、「変化を恐れている(だけ)」と決め付ける行為にも顕著に表れている。
少し想像力を働かせてみれば、榊が告白できなかったのは関係の変化に恐れただけではなく、同性愛者の自分を侮蔑され、好きな相手にすら自分を否定される恐怖があったと考えるのは容易だ。つまり、異性愛社会で同性愛者の受ける抑圧を岡田は全く念頭に入れていない。これはマジョリティの傲慢ではなかっただろうか?
二人の経験は全く違わない訳ではないけれど、だからと言って同じではないのだ。

たとえば、美山が言った「ノンケとゲイの隔たり」にしても、話の内容がもし違ったモノだったらどうだろう?
榊がオカマだったら?
女性に性的興味が向く岡田を榊が拒み始めたら?
それこそ、美山の言うように、ゲイの思考回路が非ストレートでクィアな異文化であり、ストレートなヘテロには受け入れがたいものであったら、…岡田はそれでも差異を無視して二人で付き合っていけると断言できるのだろうか?

岡田はクィアな他者と重なり合う可能性を見いだそうと、「ゲイとノンケ」という二項の境界線を揺るがす。この意味で岡田は非常にクィアな主体だと言えるけれど、しかし彼は二項の間に横たわる差異を無視して、「ゲイ」を自分の共感しやすい客体として恣意的に解釈しているように見える。そうすることで彼は受け入れがたい部分には目をつぶり、クィアを「クィア」として受け止めずに自己と同一化を計ろうとする同化主義的傾向があると言えそうだ。
結論。『嵐のあと』はセクシュアリティ間の境界線を揺るがすが、その内実はストレートにとって都合のいい“差異なき関係性”でしかないと思われ、クィアを骨抜きにした同化主義である。
ソレに対し私は、「差異を認める以外に、異なる他者が重なることなど現実に有り得ないのではないか?」と疑問を出してみよう。

そうした「現実」に目をつぶるのが「BL(或いは百合?)」だとするなら!これほど脆弱な希望はないだろう。しかし私はそこまでBLが儚い物だとは、けして思わないのだけれど…。ともあれ、差異に目をつぶるのはマジョリティにとって確かに都合が良かったのだろう。


いずれにせよ、本作を読んで思うのは、岡田のこの切なる願いだ。ストレートな異性愛社会(と一部のレズビアン・ゲイコミュニティ)では岡田とは逆に「ノンケとゲイ」の壁を作ろうとしているのに、彼は二つが重なる事を信じてやまないのだ…!こんなにも私にとって共感できるキャラクタがBL以外にいただろうか?イヤ、イナイ(反語)
ただ欠けているのは、「お互いは異なる他者なのである」という想像力。私は岡田が、そして榊がお互いの差異を見つめた上で、分け隔つのではないクィアな関係性を築いてくれる事を信じたい。それは私のBLへの願いそのものだったりします(照れ)。


よし!今度、鬼束の「Beautiful Fighter」買おう。コレに入っている「嵐ヶ丘」をCDでちゃんと聞きたい!
私も「怪獣」になりたい。広がる世界に大きな声でヒステリックに返事して、逃げずに心を震わせながら「奇妙な揺れ」を待つんだ!イェイ♪


という訳で、今回の文章は実は「嵐ヶ丘」にインスピレーションを与えられて書いたものでしたv