「遊覧船」レビュー。

遊覧船 (ディアプラス・コミックス)

遊覧船 (ディアプラス・コミックス)

  • あらすじ。

遊覧船乗り場の売店でバイトをする日和は、物書きの間宮のことが気になっていた。間宮は何故か大変気前がよく、日和に事あるごとに高額な駄賃をくれる。それはふたりが初めて寝た日もそうだった。日和は激怒するが、実は間宮はお金でしか愛を得る術を知らない人で……。表題シリーズ四篇を収録。日和と間宮のプレシャス・デイズ!

チョット補足。どうも箱根らへんが舞台で、大きな買い物をしようと思ったら遊覧船に乗って外出しなければならない。その実家にある遊覧船売り場でバイトする日和は、体を壊して商船高専を休学中。そして彼の実家が経営する旅館で、現在使われて居なかった宿の一室を暫く貸し切っている間宮。彼らはバイト先と旅館で度々会うようになり、その都度日和は間宮から高額のチップを貰うようになったが・・・。

  • 帯。

金さえなけりゃとっくに僕はあなたのものなんだ―――・・・。

遊覧船乗り場の売店でバイトする日和が出会った物書きの間宮は、お金でしか人を繋ぎ止める方法を知らなくて・・・・・・。

この台詞を終盤ではなく序盤に出した事で物語に深みが出たと思う・・・。

BLレビュー。

「恋人は港」と詠ったのはイアン・ローランドだったけれど、互いの港に行き交うその道筋や乗り込む舟は、人によりけりだ。思うに日和と間宮は双方の異国を行き交う恋人で、それぞれの航路を進むための荷も同じではなかった。けれど、どちらか一方だけが荷を捨てるのではなく、道行くための荷(糧)を分かち合おうとしたからこそ、彼らは港に通い合う事が出来るのだろう。分かち合えるものでこそ、互いの新たな人生を築いていけるのだから。


作品の雰囲気は表紙を見てもらえば分かってもらえると思う。藤たまきサンらしいいつも通りの作品でありながら、今回は私好みの朗らかな「ロード物(成長譚)」で、一番楽しめたかもしれません。乙女チックな所が無きにしも非ずの受け・日和と、素敵な具合に頭のネジが外れた攻め・間宮。間宮がとても魅力的な人で、恋人に金品を貢げられる事にご満悦な姿や、睦言などにウットリ笑む姿が、妙に幼げで愛くるしかったです。二人が金品を貰う貰わないでケンカしたり、その他のエピソードを読むと、とても微笑ましいカップルだったように思います。うーん、「私は漫才カップルが好きなんだなぁ」と発見した作品デスネw

日和曰く間宮は「異星人か異国人」で、本当に根っからの「金の亡者」です。お金やお金で買った物で人との絆を築く彼とは対照的な日和は、恋を自覚してからというものは、自身の「恋愛は金ではなく、精神的なもの(有形ではなく無形)」という恋愛イデオロギーをかざしながらも「間宮にとっては自分も『異国人』である」ことを自覚しているのです。
そして、案の定物語は精神性を高める方向へ向かうのですが、その結果にあっても一方的に恋愛の“正しさ”を押し付けあうのではなく、互いに理解し合う努力を積むスタンスで愛が紡がれる。もしかしたらその姿勢こそが二人の絆であったのかもしれない。ソコがとてもよかったです。

ちなみに日和は「この年でのどかな田舎でおばさん相手ばかり」と言いつつ良い男(攻め)の相手の時は気色ばんだり、「この年でとうとう女の子を好きにならなかった」子であるし、普通にゲイにも共感出来る立場だと思う(ゲイを名乗らない私にそれを言う道理はないかもだけど)。それと、間宮は「ゲイ=女が苦手」と描かれるものの、最後らへんに第三者に仄めかされるだけで詳しいアイデンティティ描写はないんですね。そういえば、彼らのセクシュアリティ・・・セクシュアルアイデンティティ描写も、“描かない訳ではないけれど無意味に拘らない”スタンスで、それも私好みでした。

さて、面白かったのは二人の差異有る恋人が演じるディスコミュニケーションでしょう。たとえばそれは二人の睦言にも現れています。

「そういう話じゃないよ あなたが好きだから! 金や物は欲しくないんだ 何故わからないの?」
「――・・・わからないよ 好きなら欲しがってくれ 何でもいい 与えたいんだ」
―――・・・
「欲しいのは・・・身体だよ 寝てくれりゃ何もいらない・・・」
「―――・・・ 君は時々・・・ ビックリする程すきもので困っちゃうなぁ」

このあとすぐに日和は「ちょっと(怒)」と間宮の解釈の仕方に戸惑いを見せ、このシーンが笑う所だと示唆される。しかしこれが二人のすれ違った価値観が顕著になってるシーンで、間宮にとっては精神的(即ち無形のもの)な意味で言ったはずの「身体」も「金」と同じく即物的な有形のもなのである。もちろん日和にとってそれは不本意な解釈だ。
・・・そもそも言語体系が違うのよね。「性的な身体」が日和のスピリチュアルな恋愛イデオロギーにあってはより精神的なものとして理解されるが、それは非常に恣意的な解釈であり、異国人の間宮に取っては異文化の七不思議でしかない。つまりこのシーンは「異常な恋愛志向」ではないはずの価値観が相対化されたトコロなのだ。他にも似たケースが描かれるが、正直私にはどちらも極端な価値観に見えてしまう・・・。


このコミュニケーションは最後意外な展開で融和されることとなる・・・。それまでの恋愛定義・心理の変化及び受容が一冊にわたって丁寧に描かれるために、『愛』と言うテーマにおいても非常に奥深い作品であったと思う。
温かな物語をありがとう、藤たまきサン。

以下ネタばれ。

ここでいきなり私が一番好きなシーンを長たらしく引用してもいいだろうか。

「僕はまだ頼りなくて・・・ 高価なものになんか値しないんだよ」
「何の話?・・・値するよ・・・」
「しない」
「する」
「僕がそう思えない 思えるようになったら・・・ もらえるかもしれないけど――――・・・ でもごめんね でも信じてね 僕はあなたが好きだ」
「―――・・・ ・・・本当に・・・?」


ここは普通 嬉しい顔をするものなのに・・・ 頼りない不安顔 
頼りない間宮さん・・・ 頼りない僕・・・ 悲しいけれど お似合いじゃないか

そして間宮は昔を思い出す。昔亡くなった母との、“痛みはないやさしい想い出”を。彼は「やさしい」ものが弱く儚い事を学習している。だから彼は日和に「強い汚さ」を求める。なのに、違う日には翻って「自立して自分から離れるくらいなら」と「強さ」を否定する・・・。こんなチグハグな間宮は有形のものに絆の確信を見出そうとするんだ。けれど日和は言う。「金も身体もなくても間宮さんは絆で自分を繋ぎとめている」と。
この台詞で「絆」とは有形のものではなく無形のものだとされる・・・。しかし、この二人の奇妙なすれ違いはなんだったのだろう・・・。だって、彼らは最初から「絆」を求め合っていたじゃないか。擬似的に異なる価値観を争わせていたけれど、結局どちらも同じ「好き」を持っていたじゃないか。彼らにとって大事なのは、二人が末永く繋がり合い、航路を共にする事だったと思う。
たとえば、終盤で明かされる二人が惹かれ合ったキッカケ(素晴らしく感動的でした)。その会話の中で出される「声」という要素だって、一つの有形。声を聞く事が出来る私にとって、それ自体が大事なものだ。
それに、物を与えたり受け取ることも、絆の構築だということを、日和自身が(先で引用した辺りのシーンで)認めていたはずだ。人は精神的な無形のものだけでなく、有形のものでも繋がり合える。「美しい思い出」「離れたくない気持ち」「溶け合う感覚」。確かにどれも形はなく、間宮にとって確信足り得なかったもの、・・・それを肯定する日和。だけれどそれを媒介とするものも、時には有形だっただろう。皮肉にも日和が無形の絆を裏付けるために要求するものも「手紙」であり、有形だった・・・(つまり間宮を否定しようとは思っていない訳だ)。
しかも、日和も同意した「いつか外国で同性結婚をしよう」というアイデアも、ものすごく形ある物ではないか!(婚姻届を出して二人の仲を明文化した上で国家に管理してもらい、法上の家族枠で貞操義務などの節度あるパートナーシップを強要される、これは全く非精神的な絆ではあるまいかっちゅーの)

↑あ、ところで最近カリフォルニアの同性婚が日本でも話題ですねv


実質、お互いの違いに向き合い、歩み寄っていた二人。何が絆の土台となるか、航海の糧となるか、二人はコレからもずっと暗中模索してゆくのだろう。それも残り50,60年くらいの長い人生をかけて、譲歩しつつ、見つけ合うのだ。こんなに素敵な絆があるだろうか。彼らはもしかして、既に答えを見つけているのかもしれない。だって、異国の港を行き交う術をちゃんと学びながら生きているんだもの。


素敵なパートナーのお話、ご馳走様でした!