「花舞小枝で会いましょう」レビュー。

「ハナマイコエダ」て・・・。

花舞小枝で会いましょう (キャラコミックス)

花舞小枝で会いましょう (キャラコミックス)

  • あらすじ。

訳あって女として育てられ、
普段は和装の美少女姿──。
そんな天涯孤独な少年が、
莫大な資産家の相続人だった!?
父の代理として女装の美月(みづき)の前に現れたのは、
有能な若き弁護士の波多野(はたの)。
美月が男としてバイトする料理店の常連客で、
なんと美月に気のある野心家なゲイ!!
波多野の素顔を知る美月は、警戒と反発を募らせて…。
清楚で可憐な大和撫子は、難攻不落なオトコのコ!?
クラシカルな甘さが香る、現代版とりかえばや物語♥ 

「ゲイ!!」www

  • 帯。

清楚で可憐な大和撫子は、難攻不落なオトコのコ!?

ごめん、やっぱり正確には書かないけど、Charaコミックス創刊13周年記念としてダブル全員サービスが企画されてます。小冊子と図書カード、詳しい応募方法は本誌8月号をば参照されたし。

BLレビュー。

資産家の愛人であった母。彼女は自分の産んだ子が後継ぎとして取り上げられる事を恐れ、ミズキに女子の格好をさせた。戸籍までもが女子となり、ミズキ自身が中学一年までは何の疑いも持たずに<女性>として家の外に出て生きてきたものの、それも難しくなるころ、学校を辞めてしまった。しかし、その母も死んだ今、一人で女性として生きる事は困難と悟った彼は、今後男性として生きる事を選択する。家では女性として暮らしながら、「リハビリ」と称して男性の格好でバイトを初め、何もかもが手探りのミズキ。そこに、資産家の父からの依頼でミズキを引き取るべく弁護士の波多野が現れるが・・・、ミズキは母と暮らした家を手放す意思はなく、自分の人生における宿命に向かい合うこととなる・・・。

とりかえばや物語」とあるけれど、言うまでもなく二つのジェンダーを背負うのは一人の少年<受け>だけであります。だからこそ面白いんだな、BLは。
さて、今回は初の夏乃作画作品でしたが、小奇麗なタッチで綿密に描くといった印象を裏切らない内容で、何より、大正風(?)のクラシカルな和装をした『受け小町』様がとっても愛らしかったです!正に少女、それ以外の何者でもない彼の凛として毅然な立ち居振舞い・・・。正直言って私は少年としての彼より、少女としての彼に魅力を感じます。
ただし、彼はあくまで「彼」であり、受けと攻めの関係もヘテロセクシュアルなそれではあり得なく、最終的にホモセクシュアルな絆を纏って行きます。

本作の何が楽しいって、受けの二重生活両方に攻めが関与することで、攻めの本音と建前…果ては本質的な人間性までも受け主人公が垣間見てしまう、この構成!「ミズキ」のバイト先『花舞小枝』と、母の残した家で二人は異なる関係を持つ訳だけど、どちらの「ミズキ」も同一人物だと知らない波多野の思考は全部彼に筒抜け
波多野は最初、自分の社会的地位向上・金目当てにミズキと結婚しようと企んでる訳です。「俺が口説いて落ちない女はいない(お前同性愛者だろうに、なぜレズビアンを想定に入れないんだ?)」「美月の家に出入りする男がいる、別れさせてやる(←実はミズキ本人だったりするw)」、そんな思惑ももちろん知っているミズキだから、当然波多野に対してつっけんどんになります。
とは言え、波多野もいつしかミズキの本性を疑いだすと同時に「自分は一体どちらに惹かれているのか」と真剣に思い悩みます。「ゲイの自分が女に見惚れるなんて・・・」、しかしてその少女は男の子だったという、ゲイにとっては嬉しいんだか何だか分からない顛末な訳ですが・・・、ある意味、BLのテンプレ的な攻めと同じでしたね。と言っても、彼の弁護士としての話術はそれ程高そうでもないし、何か特別機転が利いてる訳でもない辺りが、なんとも平凡。うーん、地味にヘタレ攻めだ。あ、つっても受けも迂闊だったけどなぁ。

だだ、どうも二人の恋愛感情がストンと入ってきませんでした。受けが攻めの素直な一面を見るなどして再評価したり、あるいは、波多野が「実は自分はゲイであり、男としての君により惹かれていた」などと言うのだけど、確かに『花舞小枝』のミズキにモーションかけてたけれど、少女のミズキに惹かれているように思えた波多野のこの言葉は、若干寝耳に水かと。 周囲のキャラクタ(父親)も悪役か否かが良く分からないのはいいのだけど、どうも振り回された感が・・・。(私が疑り深いからかな・・・
二人の恋の最終局面も、もう一息「タメ」が欲しかったなぁ。それと、・・・お願い、描き下ろしあるのなら、もうちょっと後日談より前の段階を読ませて・・・!
ああ、漫画もとっても素敵だけど出来たら原作者・鹿住さんの小説も出して欲しい!きっとどちらも面白いと思うんだー。

何にしても、可憐な少年の少女性・少年性を堪能できて、ご馳走さまでした♪


以下ネタばれ。

ヤヴァい、寝てしまった。。。

nodada's eye.

どうして? 何でそこまで美月に肩入れするんだ 彼女のためにはそんな顔するのか まさか 本当に好きになった・・・?

―――俺、今「美月」に嫉妬した・・・・・・?

この人が美月に親切だったのは財産目当てで 贄田家の娘でなくなった今 彼にとって美月は何の魅力もなくなった
・・・・・・もしも 女だったら――――
必死に守ろうとしてくれる子の人を好きになっただろうか・・・?
この人を好きに――――

〔・・・〕
馬鹿なことを それこそ 女ですらない美月は この人には何の価値もありはしないじゃないか・・・

このように、彼自身にとっても「瑞城大介」と「岩瀬川美月」は断絶されている。たとえば、化粧をして会っている相手に好かれたからと言って化粧をしていない自分がしている自分に嫉妬する、というのはあまり聞かない話だ。
だけれど、その実彼は、父親に対して「認知も何もいらない、自分はこれからも岩瀬川美月であり続けたい」と言う。描き下ろし後日談でも、彼の名前は「美月」で統一されている(多分、戸籍の名前を変更していないのだと思う)。
そして、波多野がゲイだとは知らない美月は、「大介」である自分が好かれる可能性を知らない。ただ、美月に失恋したと嘆く波多野に突然キスされた時、美月は「あんた、男でも女でもどっちでもいいのか(誰でもいいと言うのなら、こんなひどい事はない)」と怒りを見せる。バイへの偏見だー。
しかしここで読者に与えられる真実とは、岩瀬川美月が持つ匂い袋の香りを大介にも感じて、酔っていた波多野が、条件反射のように「匂いにつられ」キスをした・・・というもの。
ここで告白シーンの台詞を抜粋。

「・・・何でそんなに男に戻したがるんだよ 遺産が目当てなら・・・女の方が都合いいじゃないか それに・・・」
〔・・・〕
「・・・私はもともと男性しか好きになれないんだ 君が言う通り女性との結婚は目的のためだと割り切っていた 父親から独立したくてたまらなくて 君を・・・美月さんを利用しようとした 美月としての君ならさぞ不愉快だったろうね・・・ ・・・だけど彼女に惹かれるようになって自分でも驚いた 最初は君と同じ境遇がそうさせるのかと思ったけど・・・ それも当然だ 彼女も・・・・・・・君だったんだから 君を好きになるように彼女に惹かれていった」
〔・・・〕
「・・・誰でも 良かったんじゃないの・・・?俺 このまま女のふりしてれば先生と結婚することもできるよ・・・?」
「君も戻りたいと思ったんだろう 自分で決めた事をそんなに軽々しく変えてはいけないよ それに 真っ先に会いたいと思ったのは 君の方なんだよ」
いいんだ 俺 このまま いて いいんだ

ここでも結局二人のミズキは重ならない。更に、大介の方に先に出会っていた波多野は、自分の「岩瀬川美月」への想いも大介に対するものだと解釈してみせる。「彼女」への想いも、結局は男である大介と同一人物だったのだから同じものだと言う訳。なんとも納得の行かない話なんだけど、とどのつまり波多野がゲイであることは、攻めが受けを男性として恋している事の証明に持ち出されている。
そう、ここで重要なのは「女性としてのミズキへの恋慕を否定する事」だ。この流れによって、ミズキは男性としての性自認と、或いはホモセクシュアルとしての愛を獲得できるのだ。(これは最近読んだ『八王子姫』でも同様)

そもそもミズキには女性としての性自認があまりないように見える。子供のころは自分を女性だと疑わなかった、のにも関わらずだ。そう言えば、波多野がミズキの正体を暴くとき、彼は岩瀬川宅に押し入りミズキの着衣を無理やり脱がすんだけど、そこでミズキは「力ずくなんて最低だな」と波多野を詰る。しかし、波多野は「君が女性だったならね」などとホザく。ミズキもそれを否定しない・・・もしくは出来なかった。しかし、女性として生きてきた彼が自分の肌を晒す事は、実際問題・感覚問題として最も恐れる事ではないのだろうか・・・?(少なくとも私の想像の話だけど) だからこそ彼も今までなるべく人との接触を避けてきたのだろうに、なぜかそこらへんの恐怖がここでは蔑ろに描かれているように思えてならない。―――この作品では、余計なトランスフォビアが一切なかったので大変有難かったのだが、だからこそこのシーンには違和感を感じた。

そして、ミズキが抱える問題について。出生届を女性で出したミズキの母に対して、波多野は「そんなことをして君の人生はどうなるんだ」と憤りを見せる。
確かに、ミズキの母が行った事は独り善がりで子のためになるものではなかったと思う。波多野はそれを責め、ミズキに男性としての人生をやり直す事を勧める。ミズキ自身も納得している。


ミズキは最終的に自分の身体的性別を周囲に明かす事を選択する。「花舞小枝で会いましょう」とタイトルにあるように、彼は『花舞小枝』としての・・・男性としての自分に出絵会ってもらう事を望んでいるんだ。描き下ろしの後日談でそれは幸福な形で描かれ、おそらく今後一切女装をしないように見える。
つまり、この作品は女性としてまなざされる男性(受け)が男性として愛し合い男性アイデンティティーを獲得し直す物語なのだ。自己の女性性と男性の性自認の間に引き裂かれた自我、それらの回復による幸福・・・何故か最近女装受けを読む機会に恵まれるのだけど、何れの作品もこれがテーマだったように思う。

少なくともこの作品において、男性が女性として生きることの肯定はなかった。ゲイな幸福を肯定するけれど、トランスジェンダーな幸福は肯定されない。
いや、それが悪いと言う訳でも批判する訳でもないんだけどさ(最終的にはそれも批判するけれど)。と言うか、ゲイな幸福を示すこのBL作品に私は価値を見出しているのね。だとしても、私には、ミズキは女性ではいけなかったのだろうか・・・という一つの<不満>を感じてしまう。彼が女性として生きることが困難なのは、彼のせいではない。そもそも論で言えば、戸籍などで人の性別を管理する社会システムが彼の人生を抑圧している、とも言えるのではないか。
そう思うと、どうしても釈然としないしこりが残るんだ。幸福の選択自由が差別的に制限された上でのゲイ肯定、そういう文脈になりかねないこの物語。ミズキは幸福になれたけれど、それはある意味、彼が<幸福が保障されている選択肢>を選び取ったからだと言えるのかもしれない。