同性愛の尊厳がないゲイアイデンティティー受容とは・・・?

ごめん、フラットのほうは後でうpする。

恋は思案のほか (Dariaコミックス)

恋は思案のほか (Dariaコミックス)

  • あらすじ。

一人暮らしをするためバイトを探していた持田は、同じ大学の塚原の家に同居し彼を見張るというバイトをすることに。しかし塚原は頻繁に男を連れ込むホモだった! 始めは戸惑っていた持田だが、一緒に暮らすうち徐々に塚原のことを理解し友達として受け入れる。ある夜、塚原の部屋から洩れ聞こえてきた情事とわかる声に反応してしまった持田は…。悩める純情ラブ♥

  • 帯。

三歩進んで二歩下がる
想定外のこの感情は――。

ここから畳む。とお子さんやこの作品が好きな人は読まないほうがよいと思うマス。酷評というか、愚痴というか、怒りの吐露です。

うん、一話を雑誌で読んでたのでどういう類型かはわかっていたのですが、案の上ディシプレッシング。ひょんなきっかけからゲイと同居するノン気というお話なんだけど、「ノン気にとってゲイという存在はあくまでイレギュラーでありハプニングのはず」というあからさまなコンセプトの採用自体に辟易。それでも持田というノン気主人公は「許容しがたい」とされるゲイアイデンティティーに自ら近づいてはいるし、単純に「ゲイは向こう側の人間で理解しがたい変態」という結論を出さない。ただし、そこでは“自分が男に惚れる事=「ホモ」を名乗ること”と同時に、彼らの文化・コミュニティに属してしまうことをも意味していて、その所属先となる空間には、非常に淫猥な空気とハラスメントに満ちているというのだからお笑いだ。始終この調子だから、ゲイコミュに所属することは、カジュアルセックスが出来ない持田にとって承服しがたいこととして映るのだが(何ソレ)、そもそもなぜこんな前提でしか“セクシュアリティの揺らぎ”と“同性愛”が描かれないのか疑問。とまれ、フェアなところがなくもない。

よく男女で友情は成立するかって話があるけど 体の関係があったって友情は成立する
俺の場合 むしろあった方が成立する

このような台詞をあくまで奥個人の言葉として描き、他のゲイキャラクタとの対比を行う事で、奥の友情観をゲイ全体に一般化していないのは評価できる。また、ノン気の持田はやや性に潔癖だが、そんな彼とは異なった性道徳を持つノン気(持田と友達である樋口)が登場する。彼と奥の両者には「後くされなかったら好みの奴と気軽に寝るだろう」という意見の一致があるのだが、ここではゲイとノンケの間に若干インモラルな共通性を見出すことで、「正しいノン気VS淫らなゲイ」の構図を避けていると言えそう。まあ、その効果もやや疑わしくはあるのだけど、一応、性道徳に関してゲイとノン気を無闇に二項対立化させていないのは好ましい。
にもかかわらず、このゲイ描写の偏りようといったら目に余るものがある。奥というキャラクタも、最初から最後まで「嫌がるノン気にセクハラするゲイ」そのものだし、それどころか、この漫画にはこの手のゲイ以外は絶対に出てこないんだ。どいつもこいつもおかしなぐらい「ハッテン場で男をとっかえひっかえして淫らな変態」って感じのしか居ない…。セックスモンスター大いに結構だけれど、もうちょっと他にバリエーションないですかという。

持田と奥の馴れ初めもなんだかなぁ。同性愛者であるゆえに抑圧的な奥の家庭環境を知って同情するのはいいのだけど、そういう弱者の哀れむべき点をもってのみ、ノン気とゲイが接点を持つというシークエンスはあまりに陳腐。
それにもまして酷いのが樋口をはじめとするノン気のヘテロセクシズムだ。「持田を奥の家に住まわせただって?あいつ男好きだろう、食われたらどうするんだ!そんな経験は要らない!」とか、「童貞なのにホモにかこまれてしかも馴染んでるのが良いとは思えない」とか、「奥の周りって同類ばかりだし、ーー同性間ーーセクハラにその内慣れてこういうのもありかなーなんて全てを失ってから泣いても遅いんだぜ」とか、「お前は嫌な奴だけど分別はあると思ってたのに持田に手を出しやがって、最低だ」とか、そういう言葉が批判もされずに普通にまかり通ってるのがありえない。。。


同性愛描写にナーバスな私の場合、表現で何が重要になってくるかというと、それが差別的であるかどうかよりも、それが同性愛の尊厳を守っているかどうかなんです。私が嫌いなBLって、ゲイを散々馬鹿にしておいて、受けと攻めの恋愛成就だけをハッピーエンドとして演出しているもの(表題作他の「君までの距離」もそれに該当)。

もちろん、奥もホモフォビアと差別的な発言にただ平伏しているだけはない。「あの教授ソッチの気があるんだってよ、奥ってやつも教授のをくわえて単位もらってるはずだ」という下劣な発言に対して、嫌味を言って応酬したりする。
ただ、このシーンには後々に色んな意味が含まれていく。
まず、周囲の学生が同性愛者であるという噂をネタにして、しかもゲイを名乗る奥を侮辱している。そんな発言に意も介さない奥だったが、一緒にいた持田はそれに憤慨して今にも彼らに掴み掛かりそうだった。そこで奥は自分から彼らに応酬することで騒動を食い止めているというわけ。持田は奥の放った嫌味攻撃にスカっとした様子でいるのだけど、そんな持田に奥は苦言を呈す。以下にそのやり取り。

奥「おまえはバカか?相手にすんなよ」
持田「でもお前だって」
奥「俺は何言われようが平気だし お前がキレなきゃ放置してたよ」
持田「別にお前のためじゃないし 俺が嫌なんだよ お前のこと勝手にアレコレ言われるの」
奥「あいつらが言うこと当たってるかもしれないぜ 単位もらえるなら寝てもいいかもなァ ウソだけど」
持田「俺はお前が男好きだろうが女好きだろうが関係ないし お前が見せるとこしか知らないかもだけど でも部屋においてくれたし 友達だと思うから」

持田は確かに「男好き」な奥に抵抗を示すというより「カジュアルセックスをする」奥に抵抗があるようで、持田の性道徳にとっては後者がより重要なのだろう。
そんな持田は、友達思いでゲイフレンドリーに見える。ただ、樋口と持田と奥の談話最中に出た「童貞なのにホモに囲まれて馴染むのはいけない、女を紹介する」という樋口の言葉に対して持田は「俺の性事情を勝手に決めてくれるな」としか訴えない。もともと奥と樋口の仲が悪い上にいくら奥がゲイ否定を気にしない人でも、この手の言説になんら批判的でないのがなー。持田はゲイとかノン気ではなく「奥は奥だから、困ることはない」と一人ごちるのだけど、つまりゲイ肯定には関心がないってことじゃない?あのさぁ、奥個人を尊重するのはいいけど、ゲイと友達ならちったあゲイネスやゲイプライドを守ろうってことを考えないわけ?友達甲斐ない奴だなぁ。別にゲイフレンドリーでない友達なんて私にだっているし、私自身、もはや彼らにそういうものを期待していないのだけど、やっぱりそれでもさ、世の中ゲイのみならずクィアに対して否定言説は山ほどあれど肯定言説は身内からも聞かれない、っていうのは、そこそこの心的負担だよ。少なくとも私の場合、正直あんまり信用できないよ、そんな友だち。(でも、そんな人らでも「お前のセクシュアリティを知っても離れていかないんだからイイ人たちじゃないか」とか言われんのよ?チャンチャラおかしくって鼻水出るわ。

樋口「すべてを失ってから泣いても遅いんだぜ」
持田「ない ないから そんなこと言ったら自分と同じタイプのヤツとしかつきあえねーぞ」
樋口「タイプとかそういう問題じゃなくてさー …まあ 俺はお前のそういうとこいいと思うけどさー 反対にそういう感じがヤバイつーか」
心配してくれてんだな
持田「ありがとな」

私にはここらへんの会話が意味不明なのだけど、やっぱ世間的にはこういうタイプが好感もたれるのかねぇ…。

ともかく、私は同性愛者ではないけれど同性愛の尊厳を守らないようなキャラクターとその物語を、何か肯定的に演出する作品には批判的です。


で、もうひとつ。持田は奥のことを友達として好いていたが、奥や(セックスでも親密な)周囲に対して独占欲と嫉妬を抱くようになる。ある日持田は偶然奥のセックス現場に居合わせちゃうのだけど、そこで彼は自分と奥とのセックスを想像する。それをきっかけに、奥を意識するようになった。それからというもの挙動不審になった持田を怪しんで、問いただす奥。話をしてる最中に、性的なムードになってペッティングをする二人。その事実に目ざとく気づいた奥の友人が「ついに奥とヤったんだろう」と指摘する。「これでお前も仲間だな」、と。(何かすごく嫌なんですけど、こういう表現)

「俺、このままホモになるんかな、このままあいつらの仲間になるんかな」と惑う持田。ただ、奥への気持ちが煮え切らないために気まずさが漂う羽目になり、奥も「お前と寝たら面倒そうだ」と言って持田との同居の解消を告げる。しかし、それで御しまいにしたくない持田は、「俺、こないだも嫌だったわけじゃなくて、気持ちよかったし!」と弁解するんだけど、そこで持田はふと奥への想いに気付く。そして、自分の恋愛感情に対して「あ、こういうのホモなのかな」と自問するが、奥との恋愛成就こそが自分にとって本当に大切であるらしく、「まあ、それでもいいや」と納得をするのだ。つまり、持田の恋愛感情が勝ってゲイアイデンティティーを受容するのね。
さて、この作品においては、ゲイはやたらと性的な存在でしかないのだけど、ゆえに受け入れがたいアイデンティティでもあった。しかし、そこには<ストレート>とされる「ノン気」の立場からクィアに近づく結末が描かれる。

テキストの価値とは、読み手の読み方次第で変わるものなのだが。このテキストは「ゲイ」を異性愛者にとって受けのいい姿で描かず、むしろ悪し様に描くことでクィア及びストレートな立場の安易な同居を許さない。さらに、そうしたゲイアイデンティティーの嫌悪と遺棄を解体するのは、奥というゲイ側でなくノン気側からというのも意味深い。「クィア」は一般的な水準においてひどく滑稽で見るに耐えないものとされる。そんな侮蔑ニュアンスをストレート側から恋の共通項を以ってして解体していく物語と言うのは、それなりに価値があると私は思う。ただ、この意味がどこまでクィアだったのか、私には若干疑問でもある。
確かに、ストレート側からクィアな要素を享受させている点で面白い作品ではある。しかし、だからと言ってここまで無批判にゲイのステレオタイプを採用してしまうのは、いかがなものか。だっていつまでやるのよ、これ。今まで散々言われてきたじゃない?「ゲイだからってセクハラするわけじゃない、ゲイのステレオタイプだけを矢面に出すのはおかしい」と。仮にね、そうした言説をあえて無視することで、「ステレオタイプ」さえも享受させてしまうお話なんだと評価出来たとしても、してもだよ?もうちょっと偏見の再生産に注意を持ちかける描写があっても良いとは思う。


それに、「あとは奥が決めればいい」という持田にとって、自分がゲイになることの意味はどこか空虚であった。彼は本当にゲイの悪印象すらも受け入れたと言えるのだろうか?結局、具体的なゲイ肯定は最後まで見られない。

片道2時間半の通学時間のかわりに手に入れたもの 快適な住処と男好きで扱いづらいが惚れた男 奥との生活はこれからも困難があるかもしれないけど 俺は結構たくましいのだ 何がどう転ぶか 誰にも分からないということで。

尊厳のない揺らぎは、果たしてクィアな変化を受け入れてくれるのだろうか。問い続けてみたい。