今日のマーカーを公開(『キネイン!』『愛という名の束縛』)。

拍手ありがとうございます。今日もマーカー公開です。
nodadaのバインダー - メディアマーカー
以下ネタバレ。

(もう閉じるのウザイしやめよう)



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キネイン! (マーブルコミックス)

キネイン! (マーブルコミックス)

  • あらすじ。

双子のケンとマリ、おとなりの家のジョーは
仲良しで小さい頃からいつも一緒。
それぞれが恋心を抱いている。
想い描く夢、見えない未来、永遠の友情、報われない恋。
青春の甘味を等身大の10代で爽やかにかつほろ苦く描くすべて日本舞台のラブストーリーがつまったえすとえむの最新刊。
BGM人気連載の表題作と読切り3編+描き下ろしを収録。

  • 帯。

どいつもこいつも何でカンタンに好きとか言っちゃうわけ?
えすとえむ〕の青春ボーイズラブ最新刊

マーカー。

えすとえむサンの新刊!正直前の数冊で飽きてしまったのだけど、今回で持ち越しました。相変らずBLなのに「ニアBL」な作風。と同時に、確かにホモエロチック!
表題作は、双子のケンとマリ、隣に住んでる幼馴染ジョーのお話。マリはジョーを、ジョーはケンを好き。ケンは…「自分は誰を好き?」と、惑う。ケンの場合、マリとジョーのように想いをまっすぐ言葉に出来ないので、かわりに3人で映画を撮ることにしたのだ。
ある日、マリとジョーは互いに好きな人が誰かを告白する。
そして、ケンへの片思いについて「男同士だし(色々無理だろう)」とこぼすジョー。そんな彼にマリは「バカじゃないの?男とか女とか言い訳にしないでよ、私なんて女なのにうまく行ってないじゃない!もしもアタシが男でもジョーはケンを選ぶんでしょ!?」と激昂する。
男同士を意味深に「障害」としながら、まるで異性間ならすべて無問題と言いたげな作品も少なくない中、(極論すれば)恋愛が成就するかはケースバイケースでしかないと印象付けるのが特徴的。しかし、そこであえてセクシュアルオリエンテーションを不問にする恋愛観は浮世離れなピュアさを思わせるのよね。こういう傾向ってBLに限らないのかしら?
あ、そうか。「もしも私が男でもケンを選ぶんでしょ」という指摘によって、彼らの恋愛が、ジェンダーセクシュアリティから自由な、より精神性に拠って立つ関係性のように描かれてるのか。

ジョーは一度ケンに告白してるのだけど、その場で後悔しちゃって「やっぱり忘れて」とケンに願い入れた。しかし、↑マリとのやり取り後、再び告白。(マリもジョーと入れ違いで、改めて自分の想いをケンに「告白」し、わざと映像に納めさせている)
ジョーに告白されたケンは「お前やマリの『好き』とは違うだろうけど、俺もお前を好きだよ」と応える。で、ジョーは「確かにキスしたいとかあるけど。それより何より、いつか今日の事を笑える日が来て、その時に一緒にいられたらいいと思うんだ」と返す。
するとケンは「安心しろ、俺にはそうならない未来は考えられない」…と言って笑ってみせる。
↑ここは、性愛より信頼にプライオリティのあるわたし的に重要だった。

初めに出会ったとき、かれらは映画『E.T』ごっこをしてて、指と指を触れ合わす。そうしてかれらは友達となったのだ。では、唇と唇では?キスを交わす男と男。結局彼らの関係は曖昧なまま幕を閉じる。しかし、描き下ろし漫画で、ケンとジョーだけの親密(?)な繋がりが描かれている。マリはどうなったのだろう。
センチメンタル〜メモリアル〜。

サルビアと理髪師』。これも男二人と女一人の幼馴染モノ。満男はユリと結婚したが、ユリは病に罹って、何年も昔に逝ってしまった。それから壮年になった彼らは、今でも友人として付き合い続けていた。昔と同じように、女を口説きに行く日には、隆は満男に髪を整えてもらいにくる。

ユリと満男の結婚式が行われる日も、新郎である満男が友人代表の隆のヒゲを整えていた。そこで、何かを言いよどんだ二人…。今になってこの過去に触れ、「式の日に言いかけてやめたことを、今ここで互いに話そう」と持ちかける隆。
それは
満男「幸せになるよ」
隆「幸せになってよ」
という言葉だった。

話は再び回想シーンへ。ユリは病床で隆に「ごめんね、満男を独り占めして」と謝る。隆は「俺は二人の幸せな姿を見れて幸せだったよ」と返す。己の死を悟っていたのだろう、ユリはそんな隆に「満男をお願いね、ずーっと見てるから、幸せになってね」という言葉を遺す。
結局、ユリが亡くなってから数十年経つまで、隆は結婚した二人に「幸せになってね」の一言がいえなかったのだ。そのことを嘆き、心の中でユリに謝罪する隆。そして、満男も「幸せになる」とは言えなかったことが、今明らかとなった。
さて、式の日の思い出に触れた隆は、ふいに雨の中サルビアの鉢を買いに行く。サルビア花言葉は「燃える想い」と「家族愛」。
「遅くなって悪かったが」と言いながら、「これから家族になろうか」と、鉢花を片手に口説く隆。
満男は「幸せになるという約束は延長だな」と言って、隆のプロポーズを受け止めたようだ…。
さて、このシークエンスにはどういう意味があるのだろう?この場合のユリは「幸せ」に反した存在だった、とでも言うのだろうか?なぜ、式の日に「幸せの約束」が出来なかったのだろう?女性の死後になってなぜ言えたのだろう?死後になって言うことの意味って何?
3人は互いに幸せになるための、3人一組のパートナー、、、ではなかったのか、どうか。うーむ、難解。


1stコミックスでも思ったけど、『あの夏の景色』で描かれた夏の日本の風情が、とっても素敵だったー。
フランス人の息子・ジロー視点。彼の父・セガールは、母と離婚後フランスから日本へ渡った。その父の訃報が、父の再婚相手の息子(つまり父の義理の息子)、治郎から寄こされた。ジローは一人日本へ…。
葬式を終えた後、ジローは治郎と共に、一度もフランスに帰ってこなかった父が「恋した」日本の風景(お祭り)を見て回る。
二人の息子には共通点が多く、運命的なものがあると治郎は語る。また、ジローは、セガールと目元が似ているらしい。
そして、“父が「恋した」日本”と“日本人の息子”が重なる時、ジローの中で「恋」のようなエロチシズムが生まれてくる…かのようだ。それにしても、治郎はセガールについてやたら熱っぽく語るけど、恋でもしていたのだろうか?

『ミックスジュース』は大学教員と教員カップルのお話。
学生君は、二人の間に横たわる<境界>が邪魔だという。肌や二人の距離が邪魔だ、と。すると教員さんは「どこに境界をひているの?」と問うのだ。
教員君による「二項対立と境界について、例えば生と死、自然と文化、男と女という、それら相反するカテゴリを隔てるのが境界という概念になるのだ…」という講義内容。

で、境界線に不安を示す学生君に、教員さんはこう応えてみせる。
まず二人の間にマジックで線を書き、相手には自分の度の強いメガネをかけさせる。すると境界線は視覚的に曖昧に写り、ぼやけるのだ。
「ね、曖昧なもんなんだ、そしてこの線は僕らを隔てる線であり、唯一の共有物でもある」。学生君は「境界線上なら溶け合うことだって出来る」。

さて。もとより境界線を引く、というのは恣意的なものだ。たとえば「生きているからこそモノを感じることが出来る、死ねば無だ」という考え方と「死後の世界(地獄天国)がある」という考え方の間で、生と死の境界は揺らいでいる。自然と文化も、事象を「自然」化させる人間の視線がまず存在するのであり、そこには文化性が見られるはずだ。男と女だって、ジェンダーは様々な差異がある。性器や性染色体と一口に言っても、そこには差異がある。ジェンダーは本来いくらでも分割できるのに、主に欧米中心社会があえて二つで分類しているに過ぎない。で、実際その分類のどちらとも言い切れない主体は存在する。なのに、シスジェンダー的なジェンダーばかりが常に参照され、法文化される。ここには差別さえ発生している。つまり、境界線を引く事は常に政治的であり、二項対立では収まりきらない主体は境界線のはざ間で引き裂かれる。
そんな中、大学の講義と彼らの睦言がリンクされることで、物語はトランス的な側面すらも巻き込む。ならば、この同性間ラブ・ストーリーにおいて、どんな(引き裂かれた主体の)生存可能性が実現できるだろうか?

…確かに、肌と肌のように、私たちには境界があり、だからこそ<自己>と<他者>との<接点>が出来る。二つを隔てはするものの、絆には必要な境界線。これら境界線を<接点>として用いるだけに留まらず(他者化させるだけでなく)、線自体を“愛”で溶かす。これはBLが既存のセクシュアリティ概念を逸脱し、骨抜きにする可能性を象徴的に示して見せた物語、…のように思えた。



愛という名の束縛 (ミリオンコミックス 59 Hertz Series 33)

愛という名の束縛 (ミリオンコミックス 59 Hertz Series 33)

  • あらすじ。

大学生の丹澤広美はイケメンの後輩・織部誠に告白される。 「俺のことが好きなら、つかまえてみろ!」冗談半分に返事をした広美だが、ふと目を覚ますと、そこはなんと織部の部屋だった!!足枷に繋がれまるで監禁状態(!?)の広美に対し、両想いになるまでは何もしない、とアッサリ言い切る織部。意地になった広美は『手をだしたら即解放』とルールを設ける。 あの手この手を仕掛けてみるが織部はなかなか手強いヤツで…このままじゃ、俺の方がヤバいかも!?
体当たりのハイテンションラブ&描き下ろしも収録♥

マーカー。

いつも通りの新也作品。ギャグのキレは若干弱かったかな?

にしても、『ふたり暮らし』で登場する「マッチョ・美少年・普通タイプの男性に、オールマイティにモテる攻め(ネコタチ問わない)」というのは珍しいなぁ。『恋愛引力』も、受けと同様に攻めまでもある種総受け状態ってのが面白い。
『恋愛引力』。男子校で最も愛され尽くされる男だった攻めが、美形新入生の登場によりその地位が危ぶまれる。なので、攻めは「ただ散歩してるだけさ!」と一人言い訳をしながら、わざわざ授業サボってまで受けの偵察に赴く。しかし、そこで攻めは受けに一目惚れ?してしまう。
それを機に、「尽くされる男」から「尽くす男」に変身した攻め。だが、自分では自覚できず、「なぜこんな行動をしてしまうのか?」と自問する日々。
そんなある日、攻めは受けの荷物の中からエロ本を発見してしまう。すると攻めは、「君を“お世話”していいのは俺だけだーーーっ!!!」と豪語し、いきなり押し倒してフェラする。
ここで、受けの「なぜこんなことを!?」という問いに、攻めが「何でってそんなの… 君の事が好きでなけりゃ男(ヤロー)のモノなんかくわえられるかっ」と檄を飛ばした直後、やっと自分の恋愛感情を『自覚』する。

こういう、「男に性的な行為が出来たら、それだけで相手の事が好きな証拠!」という単純且つ異性愛偏向型の思考は、結構BLで散見されるように思う。では、↑のような物語が持つ意味とは何なのか。まずここでは「本来(“普通の”という前置きが付くだろうか?>)男は男の身体を性的に欲望出来ないはず」といった前提があり、その前提を破る事は「好きでなければ出来ない」こととされる。しかし、このロジックの持つ意味は、単に恋愛感情の証明だけに留まらない気がする。
攻めは「本来出来ないはずのこと」をするのだから、たとえば異性に性的興味を持つ事がとりわけ「自然」化された状況下において、あるいは男性身体が多少なりとも汚らわしいと見做される状況下において(「男のモノ“なんか”」!)、このテキストは攻めの同性間恋愛に対して、女性に対する異性愛よりも強い愛情を“確約”しているのではないか。つまり、「男同士なのに愛し合えるなんて、どれだけ相手の事が好きなんだろう!」という感動に共鳴するテキストかもと、私は考えてしまう。
そして受けも、攻めと和姦した後日、「他の奴にやられたら嫌だけど攻めに尽くされるのは嫌じゃない」と語っており、彼らの親密さが印象付けられている。
他者との差別化。とりわけ、他の男性とは出来ない行為が特定の男性とは出来る事が、愛情の証拠として直結してしまうテキストにおいて、彼らの間に「より強い恋愛感情が存在する」というファンタジーを呼び起こす可能性は否めない。より強い恋愛感情が存在する「から」男“なんか”とセックス出来る。
これはこれでホモフォビックな恋愛証明だ。とは言え、この作品では彼らの関係が異性愛と直接対比される訳ではないし、むしろ男性が男性を愛す事が日常として描かれている。にもかかわらず、確かに男性身体嫌悪とホモフォビアを持った男による男性同性間セックス(が可能である事)が、恋愛証拠となるわけ…。『恋愛引力』では、尽くされる男が尽くす男に変化する事がギャグとして描かれることで、キャラクタの行動がおかしみをもって描かれる。この場合、攻めのホモフォビックな恋愛証明は、異性愛規範を「おかしみ」として描いてくれてると言えただろうか…?
であるなら、ホモフォビアを転覆したテキストだと評価できるが…。うーん。

甘い生活』。不倫をしている二人の男性会社員のお話。受けは最初「不倫なんてドラマみたいですごーいv」とはしゃいでいたが、徐々に切なさを感じてゆく。甘美だった背徳感が、重圧に変わったのだ。
しかし、最後に攻めが「好きな男がいるから別れてくれ」と奥さんに告げる事で、ずっと押し渋っていた離婚届けに判を押してくれたのだとか(コレ自体がホモフォビア存在の仄めかしだったかもしれない)。めでたしめでたし。それで受けは全ての抑圧から自由になったかのように、「もう不倫じゃないから誰に遠慮することなく堂々と言いたいことが云えるのだ」と考え、公衆の面前で「世界で一番神崎さんが好きーッ」と叫ぶ。するとバックでは盛んに「ホモだわ!」「すっげーホモだ!」という声が巻き起こる。攻めも「気持ちは嬉しいけど、今は逃げ出した方が良いのでは」とあきれ気味だ。
ここでは、不倫だけが恋愛における抑圧であるという受けの世界観がギャグとして描かれているようだ。「ホモなのに堂々としていいと思うなんてバカw」みたいな。でも、それ以外の読み方を行うことで、肯定的あるいは有用なメッセージ性を受け取る事は出来ないだろうか?
不倫関係が「抑圧されるはず(されるべき)」の関係として描かれるこのテキスト。しかし、同性間パートナーシップは「抑圧されるはず(されるべき)」関係として、“明白に”クローズされるのは最後だけだった。
ただし、途中「これって不倫関係じゃん!しかもホモのオプション付き!」という受けのセリフによって、異性愛規範が垣間見える。とすると、受けは最後に同性間パートナーシップへの抑圧をただ忘却していただけと言えるかもしれない。
しかしながら、この受けは「ホモ」であることはさしたる問題でないという観念・前提を、確かに実行しているのだ。無自覚でアレ、何でアレ。
何れにせよ、この受けはテキストの中で孤独で異端だ。ただ一人、「同性愛は自重すべき」といった異性愛規範の体現を逸脱して見せたのだから…。
そんな彼の存在は、かえって異性愛者の同性愛に対するリアクション(ホモセクシュアルパニック)がいかに行為遂行的に同性間パートナーシップを抑圧しているか、実態を明らかにしているとも言えるのではないかしら。
彼にとってさしたる問題じゃなかった同性間パートナーシップは、正しく“社会とその構成員の行為によって”問題化され、抑圧されているのだ!そんな事実を浮き彫りにしたギャグ漫画として、このテキストを評価するのもアリだろう。