「純情」3巻を読んで思うこと。

すいません、前の記事はやはり後回しで昨日やっと読めた『純情』シリーズ最終巻について雑感を書きます。

純情 3 限定版 (Dariaコミックス)

純情 3 限定版 (Dariaコミックス)

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  • あらすじ。

高校時代の初恋の相手・倉田と偶然再会したライターの戸崎は、当時の想いを暴かれ、身体を重ねるようになる。再び倉田を好きになった戸崎に、倉田も本気を自覚し、ついに両想いに。だがある日、玄関先でキスしていたところを倉田の母親に見られてしまう。関係を知られてしまった二人は、改めて自分たちの関係や立場の違いについて考え――。大人気作品、いよいよ完結!

  • 帯。

小冊子付き限定版!!
描き下ろしカラー表紙にその後の描き下ろし漫画26pの豪華版!

あと、今回5月に発売されるドラマCD企画の広告もあったんです。・・・でもね、通販購入者限定でCDに特典小冊子つけるのは理解できるとして、さらにCD購入者限定に別の小冊子応募権を与えるっていう商法はさすがにどうなの。どうせ薄っぺらい小冊子なのに、それこそコミックス一冊以上買えるぞ。

BLレビュー。

http://www.fwinc.jp/daria/manga/test.php?copy=&url=978-4-86134-324-7でも分かるように、ようやく告白した二人は甘々に。そして、デートレイプしたりと好き勝手だったあの倉田将成(しょうせい)が、真摯な攻めたんに成長を遂げて感慨深いw CD特典では「倉田のスペシャルカード」なるものが作られたり、いやぁ、出世したものです。

彼は基本的にガキなんですよね、いちばん。そのくせ格好付けしいで、受けに振り向いてもらおうと右往左往する様が可愛らしいv
そして異様にモテて流されガチに見えるけれど、ここ一番では芯の通った受け・戸崎圭祐も好印象。

今までじょじょに距離を縮めてきた二人は、関係が波立つ度にお互いの信頼を深めてきました。そして今回打ち出されたのは、「何事も当事者間で話し合うことが何より重要」というテーマでしょう。それこそが、二人に向けられた異性愛同調圧力及び同性愛差別のカウンターとして機能していたようです。
最終巻の今回が正念場で、二人は繰り返されるヘテロセクシズムに比較的善処してくれたと思います。ただ、ホモフォビアを焦点化させたまでは良かったのだけど、普遍的テーマ↑を打ち出す事でせっかくの異性愛規範に対する批判性が弱まっているように思えます。 


・・・私はBLの表象においても『クィアの尊厳』が守られているかを重視します。しかし、BLによくある「障壁はあるけど愛してるんだ」系の物語は、「二人の愛情」は守っても、ほとんど『クィアの尊厳』は守ろうともしない。とまれ、それは無理からぬことか。だって、異性愛社会に包囲され異性愛規範を内面化してる以上、なかなかできないことだもの。
クィアの尊厳』を取り戻すためには、クィアを否定する異性愛(だけじゃないんだけどこの場合は主に異性愛)の社会構造ーーマジョリティが当り前だと思ってる日常ーーを疑い、時には土台を壊さなければならない。「同性と付き合うなんてほめられたものではないし、不幸になるよ」と言われて「確かに苦労もあるしほめられたものではない“けれど”それ以上に愛してるんだ!」という肯定法は普遍的な<愛>こそ肯定するが、異性愛規範による恣意的な正しさを疑わず、やがてクィアを貶める価値観に取り込まれてゆく・・・。それが私には歯がゆいのだ・・・。

その点でこの作品は、かすかな希望を見出してくれる稀な物語であったけれど、やはり規範破壊性に欠けていたのではないか・・・?


以下ネタバレ。

nodada's eye.

まず、第一に評価したいのは、周囲のホモフォビックな差別発言に傷ついた事、それを問題だときちんと認識している事です。(中には「嫌悪するのは当然だ」と認めるだけで終わっちゃうキャラも多いので)
今回キスしていた所を倉田の母親に見られて、二人の関係がバレる。母親は別れさせようと早速息子の部屋の前で待ち伏せて、女性との結婚を勧める。

倉田「一昨日あれだけ取り乱しといてこれかよ・・・女紹介すりゃ俺の気が変わるとでも思ってんのか あんた短絡的すぎなんだよ」
母親「あなたこそよく考えなさい どんなきっかけだか知らないけどほんの気の迷いでしょ その彼と結婚できるわけじゃないのよ」
倉田「それが何?別に結婚する為に誰かとつきあう訳じゃねぇだろ」
母親「そうね、でも相手がちゃんと女性なら将成も意識するでしょう?」
倉田「女と付き合ってたってそんなの意識したことねぇよ」
母親「それはあなたがまだ若かったからよ」
倉田「――籍どうこうがそんなに大事なら男同士でもできんだろ 養子縁組とか何とか・・・」
母親「そんな話してるんじゃないわ!あの子相手にそんなこと本気で考えてるっていうの?冗談やめてよ!!そんな人の道に外れたこと・・・お父さんにだってどう説明するのよ!?」
倉田「人の道に外れてる・・・?あんたがそれ俺に言えんの?例え不倫でも相手が異性なら俺に説教できるってわけ?」
【黒字部分は原作の傍線(強調線)部分】

後日倉田は、この言い争いを戸崎に報告する。以下にそのシーン。

倉田「あいつが俺に説教できる立場かよ 自分の過去棚に上げやがって・・・!」
戸崎「・・・・・・・・・」
倉田「悪い こんなグチグチ言う為に来たわけじゃねぇんだ ただ・・・」
〔・・・〕
戸崎モノローグ(どんな口論があったかはわからないけれど もしかして将成は母親の言葉にも自分の言葉にも傷ついているのだろうか)
倉田の台詞回想「俺に説教できる立場かよ 自分の過去棚に上げやがって」
戸崎モノローグ(その言葉が含むものを将成自身自覚してないのかもしれない 俺たちの関係も母親の不倫も『ほめられたものではない』と感じている 俺だってそれを否定はできないし 将成はずっとそういう価値観の中に当り前にいたのだ 俺と関係を持ったからって彼が同性愛者になったわけじゃない だけど そんな価値観でこの感情はわりきれたりしない)

このように、倉田の無自覚な傷心は、「不倫はいけない」とするモノガミー主義と「同性愛はいけない」とする異性愛主義によるものだと印象付けられている。
この指摘は重要だ。
戸崎本人が「確かに同性関係(と不倫関係)はほめられたものではない」と半ば認めてしまっているので不十分だが、彼らが抱えてる問題は、「二人の関係が同性愛だったから苦しいのだ」ではなく、「同性愛がいけないものだとする価値観の社会に包囲されてるから苦しいのだ」という事実を読者に示している!つまり、自己否定の原因は逸脱した個人にあるのではなく、それらを「いけない」と決め付ける社会構造にあるという指摘だ。
また、最初の引用箇所に興味深い点がもうひとつある。倉田は「相手が異性だったらいつでも説教できる立場なのか」と当てつけているのだが、「同性愛はなぜいけないのか」ではなく、「異性愛ならなぜ許されるのか」という逆の見方を期せずして行っている。これは異性愛主義的社会においてほぼありえず、ゆえに異性愛の特権性は常に不問に付されるのだ。しかしそこにこそ照射を当てるべき。
もちろんただの意趣返しではあるが、これは、LGBTAQ(等等)側ではなくストレート側の権力構造を問い直すクィアな実践と微妙に重なる・・・かもしれない。


それから、戸崎の部屋に母親がいきなり訪ねてきたときも、同じ表現がある。

母親「息子と別れて下さい どういうきっかけで息子とのつきあいが始まったかは知らないけど あの子は元々まともな性癖の子なんです あなたの前まではちゃんと女性とおつきあいしてたわ 今ならまだ気の迷いから戻れるはず あの子を解放してください」

戸崎モノローグ(確かに 俺とのことがなければ きっと将成は同性と関係を持つことなんてなかった でも こんな言葉のの数々が 将成を傷つけ 棘のように ずっと刺さり続けているとしたら――)
戸崎「お断りします 将成が僕といる事を望んでくれるなら 別れるつもりはありません 解放するしないということじゃなくて もっと彼の意思に目を向けてもらえませんか」
〔ここで母親コーヒーの入ったカップを払い倒す〕
母親「何を偉そうに・・・!将成をホモにした変態のくせに 意思で何でもまかり通るもんじゃないわ 子供が道を外れるなら戻そうとするのは親として当然でしょ 親の気持ちもわからないくせに偉そうな口利かないで!!」
戸崎「・・・確かに僕には子供はいないし きっとこの先持つこともないからわからないと思います だけど 僕は彼を好きなんです 彼の気持ちを大事にしたいしそれが自分に向けられているなら手放したくない あなたから見れば僕が息子さんにこういう感情を持つのは理解できないかもしれないし異質に映るかもしれません でも僕は 彼を好きだと思う気持ちに恥じるところはないです」
【黒字部分は原作の傍線(強調線)部分。以降も同様とする】

文中で「まとも」「気の迷い」等のフレーズに強調線が引かれており、ここでも戸崎が異性愛主義的な正しさを問題だと認識している様子が分かる。。
しかも、ゲイを「異性愛者を誘惑するセックスモンスター」と見做す侮辱にも異を唱えたり、「恥じるところはない」と言って、『クィアの尊厳』を守っている風に見える。(ただ、「理解できないかもしれません」によって、異性愛者の抱える異性愛規範とホモフォビアを半ば諦めている風にも、見える。また、戸崎は母親にキスを見られた日、母親の嫌悪的反応を「コレが普通なのかな」とも感じており、ホモフォビックな現状を温存させかねない姿勢だ。)


そして今回注目すべき点は、随所に見られる「何事も話し合いが重要」というテーマだ。


最初の引用箇所に戻ろう。倉田と母親の言い争い↑を戸崎に報告しに来た日、倉田は戸崎の部屋に泊まった。仕事がたまっている戸崎より先に就寝した倉田は、戸崎の背中を見つめつつ母親の「あの子相手にそんなこと本気で考えてるっていうの?」という言葉を思い返していた・・・。
この時点で倉田は、異性愛主義による自己否定云々よりも、まず「家族に反対されても恋人を手放さないほど自分が真剣かどうか」を問われているように見える。

翌日、倉田は仕事の終了後に同僚で友人の室江に相談を持ちかける。というか、カミングアウトする。(ところでカミングアウトした倉田が「気持ち悪いか?」と問うた時、室江は「俺がお前の守備範囲に入った訳じゃないから気にしない」と言い放った。これに倉田は沈黙したが、何を思っただろう?私と似た憤りを持っただろうか?想像するしかない。それはさておき・・・↓)

室江「どうすんだ?これから」
倉田「どーもこーも・・・向こうが諦めるまでシカトするしかないと思うけど」
室江「・・・説得って選択肢はないのか?」
倉田「どーせまともな話し合いになんねえよ」
室江「相手・・・戸崎さんの意見は・・・?」
倉田「何も・・・多分俺がどうするか見守るつもりなんだと思う」
室江「・・・『多分』ってお前な・・・その辺はちゃんと話し合っとけよ 俺にカミングアウトするより先にそれだろ」
倉田「・・・わかってる けど俺今回のことがあるまでこの先について考えたりしてなかったから ちゃんと色々・・・整理してから話したいんだよ ただ一緒にいたいって漠然と思うだけじゃダメだろうから」
室江「確かに気持ち一つじゃどうにもならないこともあるけど 基本にその感情がなけりゃ何も始まらないんだ あんまり考えすぎんなよ 相手が男でも女でも そこんとこは一緒なんじゃねえの?」

室江の言葉を受け、彼は戸崎本人の意思確認が重要だと感じたようだ。
それから、戸崎の部屋にいきなり母親が訪問してきた事を聞かされた倉田は、急いで戸崎の元へ。

倉田「で 圭祐はどう答えたんだ」
戸崎「そりゃ断ったよ 将成のお母さんに言われたからってうなずけることじゃないし」
倉田「じゃあもし言ったのが俺ならお前はうなずくのか?おふくろの話じゃ 圭祐は俺に別れるつもりがあるなら別れてもいいって言ったって」
戸崎「な・・・言ってないよそんなこと 俺は将成が俺といる事を望んでくれるなら別れるつもりはないって・・・」
倉田「なるほどな その言い回しをアイツが都合よく変えたわけか でも根本的に言ってることは同じだよな」
戸崎「・・・・・・・・・ちがう・・・ 俺のはそういうつもりじゃ・・・・・」
倉田「どっちとも別れるかどうかは俺次第って意味じゃねえ?」
戸崎「・・・それは・・・だってじゃあ俺に今何が決められんの?俺のことがきっかけだとしても将成の家族内でのことを俺がどうにかできるわけじゃないし そんな権利もない それに将成は元々ノンケで 俺とのことがなければ男と寝ることもなかったハズだし 今だって別に男に目覚めたわけでもないだろ」
倉田「・・・・・・そうなってほしいのか?」
戸崎「じゃないけど・・・!そういう状態でモメて親に色々言われたらやっぱり将成だって 色々・・・考えるだろ?親がどういうとこ心配して反対するかは俺も経験あるから少しはわかるし・・・そりゃ俺の場合はずいぶん前から自覚あったから押し通したけど でも将成は俺と違ってゲイってわけじゃないし 普通に女とつきあってきてて いつでもそっちに戻れるわけだし だから・・・俺にできるのなんて・・・将成の答えを待つくらいしかないだろ・・・?」
倉田「俺は 別れたいなんて思ってもいねえよ 圭祐は?どう思ってるんだ?」
戸崎「やだ・・・別れんのやだ・・・!」
倉田「ずっとさ お前がそう言ってくんねーかなって思ってた」

という具合に、倉田はまず戸崎の意思を重んじたのだ。

思い出してほしい。戸崎も倉田と同じように、母親に対して「息子さんの意思に目を向けてください」と言った。彼らに共通なのは、「話し合い」によって当事者の意思を尊重する姿勢だ。(ただし、戸崎は倉田と違って、自分の意思を尊重しない節があるらしい↑)

さて、この当事者意思の尊重が打ち出された経緯を振り返ってみよう。それは室江の「恋愛関係は感情があって始まるもの。それは、相手が男でも女でも同じじゃないか」という言葉からだった・・・。
私はここに問題性を直感する。なぜなら、このように異性愛と同性愛の問題を安易に並列させることは、同性愛(または両性愛も当然含まれる)特有の問題を少しずつ目の端へ追いやり見えづらくしてしまうからだ。
その証拠・・・という訳でもないが、傷つきながらも結局彼らは最後まで異性愛主義への具体的な異議申し立てはしなかった。というか、当事者を無視する家族への批判しか明示していなかったのではないか。
それまでは戸崎の指摘によって異性愛主義(によるホモフォビア)の問題が焦点化されてきたのに、問題の解決法をあくまで異性愛主義の抵抗ではなく「当事者意思を無視する親」への抵抗にずらすことで、せっかくの“自己否定させる社会構造の分析”(異性愛主義&規範批判)が効力をなくしてしまっている。私にはそう思えるのだがどうだろう?
「当事者で話し合う」「当事者の意思をまず尊重する」。それはとても重要な指摘だと思う。けれど、それだけだと家族からの非難は免れても、同性愛ゆえに自己否定するスパイラルからはいつまでたっても逃れられないハズだ・・・。つまり、『クィアの尊厳』がそれほど守られないことになる。


・・・では、もうちょっと見てみよう。
次に父親が登場するのだが、彼は人目がある場所に息子を連れ出して「自分たちの関係を聞かせろ」と迫る。(つまり、アウティング行為におよぶ。)

倉田「それで次は父さんが別れさせるために出張ってきたってわけ?」
父親「そうなるかはお前の言い分次第だ」
倉田「俺は別れる気はないって母さんにも初めから言ってきた それに一切耳を貸さずに頭ごなしに反対されんのは納得いかないし 第一こういう事って言う事聞く聞かないって話じゃねえだろ」
父親「お前を心配しての事だとは思わないのか?」
倉田「それがこっちの気持ち無視していい理由になるのかよ・・・!〔・・・〕言っとくけど意地で別れないって言ってるわけじゃねぇからな そりゃ・・・実際母さんの言動にはムカついてもいるけど もし父さんに別れろって言われたとしても俺はあいつと別れたりしない」
父親「俺たちは孫を見せてもらえないということか・・・」
倉田「うん 見せてやれない ごめん」
父親「そうか・・・」
〔・・・〕
倉田「・・・正直さ 父さんも頭から反対するつもりできたんだと思ってた〔・・・〕俺と話して父さんが反対しない可能性があることは母さん知ってんの?」
父親「ああ、知ってる」
倉田「あの時もそうやって話し合ってきてた・・・?」
父親「あの時?」
倉田「俺が母さんの浮気バラした時(そして 俺が 家族から 目を背向けた時)」
父親「当り前だろう ちゃんと話し合ってきたからこそ 今でも一緒にいるんだ お前ももういい歳なんだからその位分かれ」

ここでも、「話し合う」というキーワードが出てきた。昔、倉田は母親の不倫を父に暴露した。そのとき父は無反応だった。倉田はこの経験をずっとトラウマに思っていたのだが、実際には「話し合い」は行われていたのだと言う・・・。

「話し合う」。このテーマにより、倉田は同性との恋愛関係をもぎ取れたと同時に、家族への曇りをいくらか払拭できたのだ。話し合うって素晴らしいですね、みたいな。

それはそれでいいのだけど、さて、室江の「男でも女でも同じ」発言の次に私が問題だと思うのは、ここだ。
父親は「孫は見れないのか」と聞いて倉田は「見せられない」と答えた。

・・・えっとすみませんが、一旦時間をちょっとだけ巻き戻して、倉田が室江に相談するシーンに戻ります。以下に引用。

倉田「・・・正直どれだけ引かれるか心配だったからホッとした ありがとな」
室江モノローグ(『どれだけ引かれるか』って・・・ そんな浅いつきあいじゃないんだから 真剣なのわかりゃ引いたりしないっての ―――けど どんな風に母親に否定されたかは倉田の言葉からも伺える それがよっぽど響いてるってことか 反発しているからこそ相手の言葉を無視できない それを何とか消化したくて俺に話したのかもしれないな・・・)

この「二人の関係が真剣であれば引かない(つまり真剣でなければ同性愛なんて引く)」という言葉に注目してほしい。

これは父親の発言と重なると、非常に強い抑圧として機能する。一言で言えば、「条件付きの両・同性愛肯定」だ。
母親からもされたように、倉田は幾度となく「反対を押し切るほど相手の事を真剣に考えてるのか」という問いを投げつけられてきた。つまり、真剣さを問われる事で肯定するか否かを異性愛者が決定する、という局面に立たされているわけ。けれど、「真剣でなければ引」かれたり「孫を見せない覚悟をしなければ別れさせ」られたりするようじゃ、困るのだ。

じゃあ仮に、そんな真剣でなかったり覚悟がなかったらどうなっていたのか?


ていうか、私は未来永劫誰かと連れ添うなんて死ぬほどイヤだし、親や友人から反対されただけでも別れてしまうような関係だって自由に持ちたい。そんな限られた自由しかないなんて、酷すぎる。これじゃあ結局、実質的に異性愛者からの支配だ。問題の抜本的解決になっていない。
この意味でも、「当事者の意思尊重」の姿勢である「話し合い」テーマは脆弱なのだ。話し合うよりまず、相手の不当性を照射する必要があったはず。

・・・えてして異性愛者はカミングアウトされるとき、偉そうだ。否定するにしろ肯定するにしろ「常に自分が許してあげる/もしくは反対してあげる側」。そんな父親に倉田はどこまでも正論だった。異性愛者だからって「許す権利がある」と驕るその姿勢を、「親の心配が本人の気持ち無視していい理由になるのか」と批判したのだから。にもかかわらず、ここでは「どんなものなら許すか」決める実権を、異性愛者が握っている。
確かに、倉田と戸崎は異性愛に同調しなくても済んだが、これだと同性愛の肯定ではなく、より限定された関係の肯定でしかない。それはむしろ『クィアの尊厳』を見失った肯定だと思う。


・・・まだ続くんだけどコレ、実はこの「話し合う」テーマはもう一つ重要な効果を生んでいることを、ついでに指摘しておきたい。

実は今回、倉田のセクシュアリティを支えるバックボーンが異性愛であることが、物語のネックになっている。
戸崎の元恋人で現仕事仲間の宮田(ゲイキャラ)はこうささやきかける。

宮田「倉田君も所詮元はノンケだしね こういう事態じゃあっちに戻っちゃう可能性のほうが高い そのくらい圭祐だってわかってはいるんだろ? お前が泣くことになってほしくないんだよ 同じゲイとつきあう方がいい いつ切り捨てられるかわからない不安を抱えながらノンケとつきあい続けるのなんてやめなよ」

そして、戸崎も「将成は元々ノンケで、自分とは違っていつでも<そっち>に戻れるし、家族に反対されてる状況なら将成の答えを待つしかない」と語っていたのを思い出してほしい↑。
しかし宮田の理屈はおかしい。家族の反対で恋愛をやめるケースならゲイにだってあるもの。なのに、ここでもやはり倉田の「真剣さ」ばかりが問われているのだ。まるで真剣でなければ成就しないぞと脅すように・・・。
もちろん倉田は「別れるつもりはない」と言う。このように二つの恋愛が比較されることで、ゲイ同士の恋よりノンケ×ゲイの恋の方がハードルが高いと見做され、それによりノンケ×ゲイの恋愛成就は、より強い愛の証明となってしまう・・・。
まあ、とってもドラマチックですね?これは時々見かける「究極の愛!」(笑)の証明と同じ展開だなぁと思うわけですが、それはともかく。

倉田は「相手が男でも女でも変わり」なく重要とされる「話し合い」つまり「当事者の意思尊重」をする。だからこそ、戸崎の意思こそを聞いてきたのだ。異性愛者の自分の意思ではなく、まずゲイである相手の意思を聞く。これはある意味異性愛者の選択ばかりが優先される異性愛主義への、自発的な反発とも取れないだろうか?
とまれ、毎度おなじみでゲイばかりが引け目を感じているし、ここらへんの読解は分かれそうだが、ちょっと面白い展開だった。


あと、母親の行為は単にDVだったと私は思う。なのに「親として普通の反応」と是認するのは、それこそ暴力的だろう。
そんな状況下で彼らはちゃんとホモフォビアに傷つき(しかもあの発言が元異性愛者にとっても傷つく言葉だと指摘して!)、それには「頷けないから」とよく頑張ってくれた・・・。

まあ、異性愛規範によるホモフォビアへの異議申し立ては残念ながら不徹底ではあったが、異性愛同調圧力は退けたし、「話し合う」事でゲイとヘテロ(の権威を持つ者)の対等な関係性を目指せたようにも思える。
あと残る主な課題は、限定的な、すなわち真剣な愛以外の同性愛は認めない主義への抵抗か。
・・・・ただ、やはり『クィアの尊厳』を守る事はとても難しいようだ。彼らの恋愛を見るに付け、更に再確認してしまった私である。