余白の美「1限めはやる気の民法」。

よしながふみさん。昔はBLも書いてらしたんです。

1限めはやる気の民法 1 (ビーボーイコミックス)

1限めはやる気の民法 1 (ビーボーイコミックス)

あらすじ。

良家の子女が集う名門・帝能大学で、田宮は藤堂と出会った。価値感の違う藤堂達にあきれつつも、田宮と藤堂はちょっと奇妙な友人関係に。そんな2人も卒業間近、友達以上恋人未満の関係に変化が…。よしなが流キャンパス・ラブ 待望のコミックス化!

やっぱりラブの後にはハートマークなのね…。
(注意:以下ネタバレ。)
ビブロスですから絶版本なんですけど、私はちゃんとゲットしておりました。ま、またどこかで再販されることでしょう。古本屋にもありますし、少し薄味の風味あるBLが好きでしたらオススメです。

こちらの本は、まだよしながさんの初期の本だと思う。それで絵のタッチは古い気もしますが、気になりません。というか、よしながふみらしい雰囲気というのはこの頃から顕著に現れていた模様です。
よしながふみの漫画は少女コミックに限るだろうと思ってましたが、なかなかどうして今読み返しましたら数年前とは違う、大人の雰囲気が美味しい作品だと思いました。
アダルト、というよりは、心情をつ〜らつらと描くことで大学生と云う大人に囲まれ大人の一歩手前といった微妙な位置を人情味豊かに描いております。人情味豊かに描く、と云うのがよしなが流なのでしょう。シリーズモノでしたから、よりそれが濃厚でよかったでっす。

それにこの一巻では、大学内に数多く居るキャラクタを交えたストーリー展開が軸になっており、ふたりのキャラクタだけがキャンパスライフを陣取ってるという空気ではなく、リアルな人間関係の中でふたりが存在しており、(読者がたとえ体験してなくとも)「あるある」と思わせるような共感を誘う話になっている。実際藤堂田宮の周囲の人達が事件を起こし、事件の中でそれぞれにキャラクタ性が生きている。

田宮はお坊ちゃんが集まりサボりほうける楽チンなゼミに入ってしまいます。そこでの彼等にあきれ距離を取りつつも、しかしキャンパスライフとしての人付き合いの難しさに焦点を置いてあるのです。
優等生な田宮なのですが、それと対比して藤堂らがいるというのではなく。実はどちらにも読者が共感できる装置をおいてます。
正論を並べ、親の七光りの中で育ってきた彼等を批判する田宮。しかし彼等には彼等の生い立ちがあり、その中で人間関係を構築してきたという生々しさが匂わされてあり、読者は両方の心情に小気味よい距離を取れて、人間の深みを味わえる。

「あっ来た来た あいつだろ?捕まった藤堂の息子」
「手ぶらじゃん」
「ノートが手に入らなかったんだろ 誰も貸してくんなかったのかな」
「まさか 自分から声がかけられなかったんじゃないの」

「ああ 田宮君声かけなくていいわよ 藤堂もわかってるって 帝能は内部進学者が多くて他大学よりも連帯感が強い分噂話もすぐ広まるの 今藤堂と友達やってたらあたし達まで噂のタネにされていろいろ言われちゃうもん」

藤堂の親がタイーホされちゃったとき、彼は試験のためのノートを誰からも借りれなくなっていた。それをただ受け止め諦めをつける藤堂。だが、「こういう時に友達でいるのが友達じゃねーか!!」と憤り、普段距離を置いてたちゃらんぽらんの藤堂の横に座りノートを見せる田宮。
正義感とやる気と情の厚い田宮。クールに思える彼等。

「…まあ 彼等の気持ちも分かるからさ」
「分かんな!」
「ハハハ まあま それに慣れてるから」
[…]
「前のときもこんな感じだったよ ほとぼとりが冷めればまた元に戻るって」
「それに 親の金と力に寄かかて生きてる奴にはこういうの当然のリスクだろ?……だから本当にゼミの連中のことは悪く言わないでやってよ」

さらに最後には田宮は自分が勉強に打ち込める良い環境に立ち、自分の居場所を見つけたそのとき、「ま ゼミの奴等にとっちゃあそこが唯一の我が家だったんだろうけど(←同情はしない)」と言って、彼等と自分との距離を、正しい派・間違い派と分けることなく差異ある隣人として認識したり。そうして彼等を思い出したりもする。
そういう大人の見解をさり気なく織り込ませるのが、きっとよしなが流だったんだろうと思う。


田宮はゲイであることを隠さず、穏やかな表情で田宮を好きだといって憚らない藤堂に「俺はゲイじゃない!」と言うけれど・・・。しかし、ある第三の男により、そして昔から女と付き合いたいとは思わなかったことから、その根拠がゆるがされる。男同士の関係はマジにありうるのか、それとも冗談の範囲でしかないのか。そういう(ゲイが抱きやすい類の)セオリーを交えながら、田宮と云う男同士の欲望を抱えたひとりの男性を坦々と描く。その姿勢は、ゲイという本質を描くのではなく、「自分はゲイではないか?」という苦悩のセオリーを体験しながらも「ゲイというヒストリー」を自己投影していく描写の姿勢だ。それも、ちゃんと1人の男性が抱え持つ(男同士の)「欲望」を中心に描くというもので、最初からゲイというあり方を真実化する向きではなかったように思う。というのも、結局彼は

「不波さん わりーけどその つきあえない ごめん」
「あ そ やっぱり」
「けど不波さんのせいじゃない」
「いいって 無理しなくてもあたしだって別に」
「俺 たぶん女とは誰だろうがセックスする気になれねーんだ」
「それって あたし言いふらすわよ いい?」
「かまわねーよ」
[…]
「なんか すっとした」

「田宮君!!あたし引き受けてくれたらホモだって噂流さないであげようと思ってたのに!!」

(もう言いふらしてた↑)

そらどーも けど俺は女とセックスする気になれねーって言っただけでホモだとは言ってねーよ」

(ここでも単純にひどい人とよいゲイという分け方ではなく、そこに、ホモフォビックな反応に関与せず田宮の正義感に当てられて自己反省をするキャラクタを混ぜることで、人間の複雑さ加減をにじませている。)
・・・と言っていて。田宮はゲイという本質ではなく実感を頼りに人間関係を築く選択を取る。
田宮は自分の実感をただ受け止めつつ、そして周囲の人間とのやり取りの中で進路などを悩み成長し、だからこそ藤堂と向き合う事を決める過程を辿る。
それは実際のキャンパスライフ一つ欠けても出来上がらなかった結末だ。そんな中で、ゲイのセオリーという軸だけにとどまらず、田宮と藤堂の人生という軸を設けることで、彼等のキャラクタ性をリアルなものにしてあるのだ。
なし崩し的に肉体関係になった藤堂と田宮。しかし彼等はこの一巻では友達という距離を最後までとっている。その距離感も、ひとつひとつの事件が重なるたびに、彼等の中で変わっていたはずだ。そこには「ゲイになった」という表現はなく、「セオリー」と「一個の人格」(とその人生経験の)軸が2つ合わさった形のリアルの抽出が見られるんだ。だから私達読者は「ゲイ」という(実は誰一人とて共感し得ない)『本質』を提出されることなく、田宮と藤堂を近しく思えるのだ。
セオリーだけではないリアル。それは最後の彼等の関係性の名前に対しての描き方からも読み取れる。

「ね  また俺泊まりに行ってもいい?」
「と 泊まるだけなら―」
「セックスしてもいい?」

「…と 友達としてなら…」
「は? もしもーし?それってイミが通ってないんじゃ…」
「友達としてなら!」

「ま 呼び方なんてどうでもいいか」

ゲイという名前、恋人という名前。そのどちらにも距離を保ちながら、自分達の実感を坦々と流れるように描く。そのことで彼らと云う人間性を生々しく描くことになり、彼等のキャンパスラブというのは、みずみずしくも大人な風味を味合わせてくれる。
とにかくどのキャラも立ってるんです!!生活感と人間的な空気。それがこの作品のテイストそのもの。
なし崩し→他の女性との性的な噂→周囲の事件の解決と複雑な人情の触れ合い→人間としての成長→そして藤堂への自分の感情と向き合う。
それだけの話を情緒も含めながら坦々と描いたことにより、男同士の欲望はキャンパスライフに彩られながらもみずみずしく結われる。


ところでよしばがふみといえば、余白が命です。というか、コマが命。行間を読む。そのような印象は、坦々と描く、という描写法からもありありと伝わるんだけども、その例をここに。
藤堂の家族とのやり取りです。将来の進路を親に決め付けられ暗に反抗する藤堂。そのやり取りを1pで三コマに収めてある。
そして、そのどれもが同じアングルで、コマに居るのは藤堂ただ1人。そしてどのコマも藤堂を同じ姿勢で立たせてあるというだけの、シンプルで一見コピーしたコマを3つ置いただけのような1p。

「そんな お父さんにご迷惑をおかけするようなヘマはしませんよ」
「ああ貴明 それから」

これが1コマ目。

「どんなに成績が下がってもお前を法学部に捩じ込むくらい私には訳のない事だと言う事も覚えておくといい」

これが2コマ目。

無言で、しかも前のコマと描いてある絵は一緒。
この間が、小説で言うところの行間を読む的な余白なんだと感じる。
この作品ではまだ今のよしながふみのコマ使いではないのだけど、そういう生きる余白というものが、結局彼等のストーリーを味わい深いものにしてあったのだと思った。